名古屋の無料法律相談ならあかね法律事務所


無料法律相談受付電話番号052-223-2101

受付時間(平日)
9:00〜18:00

無料電話
法律相談
無料面談
法律相談
アクセス

MENU

弁護士ブログ

2009/05/26

[カテゴリ]

 

 つい先日のブログで,自分や身内の財布が戻ってきたこと,日本人の民度の高さについて述べた。しかも,日本や日本人に対する外国人の賛辞に関する書籍まで引用して。でも,何か,なぁ・・・。ここ数日でため息の出るような光景を見てしまうこともまた事実なのであります。いくつか上げてみると・・・・・。

 

 すがすがしい朝,歩いて通勤中に,反対側からタバコを吸いながら歩いてきた髪の薄い中年男性がいた。僕とすれ違いざまに,その人は手にしていた火の付いたままのタバコを,綺麗に手入れされた歩道の美しい植え込みの中に投げ捨てたのである。何とモラルの低いこと。もっと自然を愛でなさい!このハゲ頭のせいで,美しい植物は非常に熱い思いをしただろうし,このハゲ頭のせいで数分間は受動喫煙を余儀なくされたのだ。喫煙は頭皮の毛細血管をさらに収縮させるから,育毛には良くないんだぞ!あっ,これは余計なお世話か。でも,こういうことを何の躊躇もなくすることのできるメンタリティーとは・・・。

 

 次だ,次っ。銀行の無人ATMの所に通帳記入しに行ったら,機械の周りには取引明細書の小さい白っぽい紙が散乱していた。そのままの姿のものもあるし,クシャクシャと丸められた姿のものもあるし,手で細かく破られたものもあった。一体全体,何を食って生活すればこんなことが平気でできるのだろう・・・。

 

 そして次だ,次っ。昨日の夕方,被疑者の国選弁護人として郊外の警察署に車で接見に行き,その帰り道での出来事。その道路は片側2車線,対面信号機はセパレート式で矢印の出るやつだった。直進用の矢印しか出ていなかったので,僕は左折のために左側の車線で車を停止させていた。やがて歩行者用信号機が赤色となり,左折用の矢印が出たため,僕はゆっくりと左折を開始しようとした。その直後に,右側の車線(指定方向外進行禁止,車線変更禁止の黄色の線が引いてある)を直進するかと思われた軽自動車が,急に僕の車を制するように,あろうことか右側車線(第2車線)から猛スピードで左折したのである。非常に危険な運転である。歩行者用信号機は赤色ではあったものの,とても不測の事態に対応できるような行動ではないし,こういうバカ者が悲惨な交通事故の加害者になるのであろう。

 

 さらに次だ,次っ。マナーの悪い自転車乗りのことはこのブログでも取り上げているが,おとといの朝の通勤時,横着そうな面構え(これは生まれつきでもあろうが,多分に後天的,すなわち横着な人生を送ってきたかのような風情もある。)の30歳前後の女が,自転車に乗って猛スピードで交差点を通過した。比較的大きな交差点で,歩行者を含め非常に交通量が多い。歩行者用信号が点滅し始めると対面信号機が赤色に変わってしまうので,彼らはスピードを上げて何とか道路を渡りきろうと必死になるのだ。その時は,周辺の歩行者や交差する歩道からの自転車,歩行者の存在など視界に入っていない。一番危険な状態だ。黄色い帽子をかぶったかわいい小学1年生と衝突したらどうなるというのだ!バカも休み休みなりなさい!

 

 以上の行動はいずれも大人がなした行動だ(子どもがATMで操作するとも思えない。)。このような大人になってはいけないし,してもいけない。ちゃんと躾をしなければならない。もう,今はそれしか言いようがない(泣)。

 

(追伸)ぜんまいざむらいの中には,「わたあめひめ」が登場することもある。「わたあめひめ」は,空気が読めないことの方が多いが,かわいらしいし,基本的には良い子なのである。その「わたあめひめ」は,人のため息を綿飴にしてくれる。僕のため息も綿飴にして欲しい(笑)。

2009/05/25

[カテゴリ]

 

 いやー,土曜日のゴルフは散々だった。数日前のブログには,「復活の兆し」などとタイトルまで付けて自画自賛していたのに・・・。そして,評論家ぶって,スコア低迷の原因について,「早打ち」,「リリースが早すぎる」などと分析していたのに。

 

 でも,負け惜しみではないが,やはり自分の問題点は自覚し,再確認できた。ミスショットの際には,振り返ってみると実際に「早打ち」だったり,リリースが早すぎたりしているのである(逆に良いショットの時は,決まって力まず,リリースもゆったり開始している。)。それにしてもねー,何が残念かというと,それをやってはいけないと知りつつもやってしまう自分の未熟さである。「復活の兆し」というのは,ぬか喜びだったのか・・・。

 

 でも,収穫もあった。この日一緒にラウンドさせていただいた同伴者の中に,60歳代から70歳代の女性2人がいた。彼女らのスイングは理想的なものだった。力みなどなく,しかもゆったりしたスイング(早打ちなどない!)。実際にスコアも楽に100を切っておられるのである。見習わなければならない。僕は6月下旬に2ラウンドする予定が入っているので,今度こそは早打ちと力みを見事に制御し,復活したい。

 

 ぬか喜びといえば,グランパスもである。開幕当初は2勝1分と好調な出だしだったが,川崎フロンターレと浦和レッズには連敗し,その後も負けはしないものの勝てない(引き分け)試合が続いた。ヴィッセル神戸戦は2-2で何とか引き分けたが,これは後半44分のゴールでギリギリ追いついたというものだったし,大宮アルディージャ戦でも後半かなり押し迫ってからようやく追いついたという展開だった。ACL(AFCチャンピオンズリーグ)の過密日程と選手達の疲労度を考慮しても,内容が悪すぎる。そして昨日のジュビロ磐田戦での敗北。ヴィッセル神戸戦は僕もテレビで見ていたが,中盤が機能していない。解説者からも「中盤ができていない。」と言われる始末であった。中盤でなかなかボールがキープできず,プレスを掛けられては苦し紛れに前方にボールを蹴って相手選手に渡ってしまうか,それとも味方のディフェンダーに戻すというシーンが続出した・・・。ジュビロ磐田戦の評価について,新聞でも「ロングボールを多用して工夫のない」サッカー,「ダヴィ依存症?」などと記載されていた。悔しいけど,その通りなんだもの。

 
 監督に必要な能力の一つとして,学習能力,修正能力というものがあろう。もう少し長い目で見守らなければならないが,ストイコヴィッチ監督にはグランパスのためにもう少しがんばってもらいたい。

2009/05/22

[カテゴリ]

 

 またマタイ受難曲かと言われそうだけど,平成5年に初めてマタイ受難曲の全曲を聴いた。それまではつまみ食いのような形で断片的に聴いていただけであったが,カール・リヒター指揮,ミュンヘン・バッハ管弦楽団,ミュンヘン・バッハ合唱団のCD(アルヒーフから出ている1958年録音のやつ)で初めて全曲の鑑賞と相成ったわけである。大げさな奴と言われてもいい,この時の感動は文章では表現できない。形容しがたい。筆舌に尽くしがたい(泣)。事前にマタイによる福音書でイエスの「受難の記事」を予習して臨んだものだから,感動も倍になったのだろう。

 

 僕が就職してからマタイ受難曲の全曲鑑賞に至るまでにも,いろいろな曲や作曲家の世界をのぞいてみた。フランス音楽,例えば,サン・サーンスの交響曲,フランクやフォーレの室内楽曲,ドビュッシーやラヴェルの印象派の世界も楽しんだ。ドイツ3大Bの残りのBであるベートーヴェンやブラームスの諸作品(ピアノソナタ,交響曲,室内楽曲など),ラフマニノフの交響曲やピアノ協奏曲,そのほかプロコフィエフやストラヴィンスキーに至るまでの諸々の作品も。ブルックナーやマーラーのことは以前にも述べたとおりである。

 

 でも,マタイ受難曲体験以来,僕の音楽の本籍はJ.Sバッハの音楽世界になってしまった。勿論今でも他の作曲家の音楽も聴くが,その後の僕の音楽遍歴といっても,基本的にはバッハの世界の中での遍歴となって今日に至っているので,「僕の音楽遍歴」シリーズも今回で最終回となる。

 

 バッハは生前,音楽の究極の目的について,「神をたたえることと人間の魂の再生」と述べていたらしい。僕はキリスト者ではないから宗教的なことはよく分からないが,「人間の魂の再生」という点では全く共感できるし,バッハの音楽を聴くたびに魂を揺さぶられ,癒され,明日への勇気がわいてくるのである。「キザなことを言いやがって!」と言われてもいい。バッハの音楽に巡り会い,これを聴くことができるのは,自分の人生の意味と楽しみの相当部分を占めているといっても過言ではない。

 

 バッハでお薦めの曲はと尋ねられたら本当に困ってしまう。マタイ受難曲は言うまでもなく,ミサ曲ロ短調も当然お薦めである。ただ,これらの曲は全曲を聴くとなれば2~3時間はかかる。声楽曲の中で割とお手軽で,一般受けするやつと言えば,教会カンタータ第82番「われは満ち足れり」の中の「子守歌」,教会カンタータ第140番「目覚めよと呼ぶ声あり」,教会カンタータ第147番「心と口と行いと生活で」の中の「主よ人の望みの喜びよ」などですか・・・。皆さん,これらを聴いて,魂をブルブル,ガクガクと揺さぶってもらったらどうでしょうか(笑)。

2009/05/21

[カテゴリ]

 

 少し前,僕の甥(姉の三男)が名古屋駅構内かその周辺で財布を落とした。中には運転免許証やクレジットカードなど大切な物が含まれていて,僕も直後の対応などについて姉から相談を受けたくらいだ。そうしたら,やがて所轄の警察署から「遺失物の届け出があったから,来て欲しい。」との連絡があり,甥は紛失したままの姿の財布を再び手にすることができたとのこと。そういえば,僕自身も今から約20年ほど前,公衆電話ボックスに財布を置き忘れたことがあった。慌てて電話ボックスに戻ったが財布は見当たらなかった。でも,すぐに名古屋の千種警察署から電話があり,置き忘れたままの姿の財布が僕の所に戻ってきたことがあった。

 

 今も昔も,落としてしまった財布がそのままの姿で手元に戻ってくるのである。日本という国はすごい・・・・・。国語事典には,民度とは「人民の生活程度」と記載されているが,高い,低いという用いられ方をする場合,それは道徳心(モラル)という意味が中心であろう。その意味からすれば,手前味噌ながら,日本人の民度はまだまだ極めて高いと思っている。それは長い歴史の中で形成され,法統連綿と続いてきた。日本人の高い民度が長い歴史の中で形成されてきたという点は,最近読んだ「世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言33撰」(波田野毅著,ごま書房)という本の中でも指摘されているし,身をもって感じていることでもある。この本の中から,日本ないし日本人に対して贈られた多くの賛辞の中から2つほどを引用してみよう(同著26~27頁,36~37頁)。

 

 「この国の人々は今までに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。大部分の人びとは貧しいのですが、武士も、そうでない人びとも、貧しいことを不名誉と思っていません」(フランシスコ・ザビエル)

 

 「外国人は日本に数ヶ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は、日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於て道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生まれながらに持っているらしいことである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり・・・・これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」(エドワード・シルヴェスター・モース)

 

 うれしいじゃありませんか。冒頭に挙げた2つの例も(甥の財布も僕の財布もそのままの姿で手元に戻ってきたこと),外国人がくれた賛辞のうちの「善良」,「名誉」,「思いやり」の具現化であり,日本人の民度の高さを裏付けるものでしょう。それは決して「逝きし世の面影」だけにとどまらず,日本人のアイデンティティーとして今後も守っていくべきものだと思うのでありまする。

2009/05/20

[カテゴリ]

 

 本を買う時には2通りある。ぶらーっと何気なく書店に行き,何のお目当ての本などなしに店内を回り,これはと思う本を手にとってパラパラめくり,よし読んでみようと思って買う方法。もう1つは,新聞や雑誌の広告や書評を目にして,「これは一度読んでみようかな。」と思って買い求める方法である。どちらが多いかというと,はやり半々くらいである。書店で衝動買いしてしまって,読んでみたらそれほどでもなく,やはり書評などで他者から評価されているものがいいなと思うこともあるし,かといって,書評等で評価されていても実際に読んでみると自分にとってはガッカリしてしまうこともあるからである。

 

 最近,「ブルターニュ幻想民話集」(アナトール・ル・ブラーズ編著,見目誠訳,国書刊行会)という本を読んだ。これは新聞広告で興味を持ったからだった。たまにはこういう本もいいなと思ったのだ。広告やタイトルからして,柳田國男の「遠野物語」のフランス版のようなものかなと直感し,何やら好奇心が生じた(訳者のあとがきでは,やはり「遠野物語」のことに言及されていた。)。

 

 この本は割と興味深く読むことができちゃった。これはフランスのブルターニュ地方の漁民,農民の間に伝わる話を19世紀末に広く収集して著作されたものを,最近邦訳して刊行されたものである。「遠野物語」にはカッパや座敷童(ざしきわらし)などが出てきて,怖いような,でもそれでいてどこかほのぼのしたような雰囲気があるが,「ブルターニュ幻想民話集」に出てくる話は,生死に直結しているというか,リアルというか,ほのぼのとしたものを感じはしないものの,人生の深みを感じさせる。

 

 ある時,ふと最愛の人の姿が目の前に現れ,不思議だと思っていたら,同時刻ころにその最愛の人の乗った船が沈没して死亡したという話がある。同様に,ある女性が日曜日のミサに出かけるための身支度をしている際に,不思議なことが度々起こり,ちょうどその頃に兵士としてアルジェリアで戦っていた許婚者が戦死していたという話もある。妻が池でシーツの洗濯をしている時,見知らぬ女から「今洗っているそのシーツはいずれ夫を包む屍衣になる。」と不吉なことを言われ,現実にその直後に夫が自宅で死んでいるのを発見するという話。これらはいずれも,いわゆる「虫の知らせ」というやつだ。その他にも,ある者をからかってビックリさせるために,死んだふりをしていたら,本当に死んでいたというような話。アンクー(ブルターニュ伝説に多く登場する,死が人間化されたもので死神のこと。)にまつわる怖い話。アナオン(苦しんでいる死者の魂のこと。)にまつわる話で,ミサをあげることにより救われる話などが収録されている。また,幽霊の話もあるが,ふと目にする死者のその姿は概して生前の姿のままであり,日本の怪談に出てくるような異形ではない。・・・で,でも怖いことは怖い(笑)。

 

 この本のあとがきに書いてあったし,本当にそのとおりだと思ったのだが,ある地方の民話を読むときは,やはりその地方の歴史,宗教,習俗などに対するある程度の知識が必要とされるようだ。

2009/05/19

[カテゴリ]

 

 今年11月の本番に向けて,バッハ「マタイ受難曲」の合唱練習に通っている。前にも述べたと思うけど,毎週火曜日の夜,これに加えて週によっては金曜日の夜も練習があるし,月に最低一度は日曜練習もある。

 

 先週金曜日の夜の練習では,3曲ほどの練習を行ったが,終曲の1つ前のレチタティーヴォ中の4声の合唱部分の練習をしている際に,感動して思わず目頭が熱くなってしまった。

 

     Mein Jesu gute Nacht!
     私のイエスよ,おやすみなさい!

 

 この部分はこれだけの歌詞だが,4声の各パートが,フレーズごとにメロディーを先導していくのである。最初のフレーズではソプラノ,その次はアルト,その次はわがバス,最後はテノールといった風に。その和声の例えようもなく美しいこと・・・。こういうすごい曲をどうしたら作れるのだろう。どうしたらこのような美しいメロディーが浮かぶのであろうか。自分で歌っていて感動してしまうのだから世話はない。ヨハン・セバスティアン・バッハ・・・。バッハは僅か9歳の時に母を,そして10歳の時に父を亡くし,その後は自活できるまで兄に引き取られて生活した。経済的には恵まれず,したがって誰かに師事して作曲技法を本格的に学ぶ機会があったとは思われないのに,そのような逆境にもかかわず貪欲に知識を吸収し,その天才を開花させた。「音楽の父」と呼ばれるまでになった。そして,聴く者の魂を揺さぶるようなその音楽の素晴らしさ。本当にこの人は・・・・・。

 

 「マタイ受難曲」の練習は,何しろ一日の仕事が終わった後に始まる。正直言って,今日は休みたいなと思う日もあり,実際に仕事で参加できない日もあった。でも,この宗教音楽の最高峰とも,人類の至宝とも評価される「マタイ受難曲」演奏の一翼を担うことができるのだ。ずぶの素人である僕が,この先繰り返しそういう経験ができるとも思えない。極めて貴重な体験であるし,実際に練習に参加していて目頭が熱くなるほど感動してしまう曲である。今は,こういう貴重な体験ができることに感謝し,できるだけ練習に参加したいとすら思えるのである。そして今日も練習日。

2009/05/18

[カテゴリ]

 

 一応分別盛りと言われるくらいの年齢になった僕が,改めて「ぜんまいざむらい」を考えるまでのことはないのだろう。でも,「ぜんまいざむらい」に好意を寄せているというか,これに首っ丈になってしまっているので,今日もブログに書いてしまう。「ぜんまいざむらい」というのは,NHK教育テレビでやっている10分番組のアニメ。時間の関係で朝食後にしか見られないので,僕は,毎朝食事の後に,午前7時14分ころにはテレビの前にイスを置き,そこに坐って15分からのオープニングを待ち,僅か10分間の癒しの時を過ごす。僅かな時間とはいえ,「幼児番組に熱中している弁護士に困難な事件処理を任せておいてよいものか?」と不安に思う人もいるかと思うが,仕事はちゃんとやっているのでご心配なく(笑)。

 

 ぜんまいざむらいが何故これほど好きなのかについて考察するに,ぜんまい様の外見(ヴィジュアル面)と,内面(メンタリティー)の2つに分けて述べてみたい。

 

 第一に,外見(ヴィジュアル面)である。まずは,目が黒目勝ちで可愛い。それだけで人を惹きつける魅力がある。次に,袴の右膝の部分のつぎはぎの存在も好感が持てる。「武士は食わねど高楊枝」の言葉があるように,武士はお金や商売とは一線を画し,貧しさを決して恥ずかしいと思わない。右膝のつぎはぎはその象徴である(「武士は食わねど・・・」とはいったが,ぜんまい様は居候先の団子屋「いっぷく」では結構団子を食べているようだ(笑))。ついでに言うと,ぜんまい様の服装は上下とも地味な色合いであり,これも質素・倹約を美徳とした武士らしい。好感が持てる。その服装の地味さと,「必笑だんご剣」のだんご三色(時には「増量」と称して七色に増える時もある)のカラフルさとのバランスがとれている。さらに,ぜんまい様は寝るときはきちんとした白装束で寝ており,清潔感と礼儀正しさがある。加えて,ぜんまい様の歩き方は,胸を張り,まっすぐ前を見据えた堂々としたものであり,これも武士らしくてよい。その歩きっぷりの良さについては,オープニングテーマの冒頭に,豆丸やずきんちゃんと一緒に歩いている姿を参照すれば一目瞭然。余談であるが,この時のずきんちゃんの小走りのような歩き方も非常に可愛い(笑)。

 

 第二に,内面(メンタリティー)の点についてである。ぜんまい様がいつも善を施していることからも分かるとおり,相手に対する思いやりや優しさに満ちているのが非常に良い。正に,武士道でいうところの惻隠の情で満ちあふれている。ぜんまい様の頭は風変わりなぜんまいであるのに比べ,好みはあるがなめざえもんの髷(まげ)は非常に立派である。にもかかわらず,ずきんちゃんがぜんまい様の方に好意を寄せているのは,彼の内面(メンタリティー)を評価しているからであろう。その他に気づいたぜんまい様の美点は,寛容なところである。ある回の話の中で,「わたあめひめ」が掃除を手伝うシーンがあり,彼女としては全く悪気はないのだがぜんまい様の部屋の道具をめちゃめちゃにしてしまっても,ぜんまい様は決して「キレ」たりはしないのである。惻隠の情に満ちあふれているところ,寛容なところなどは,僕も見習わなくてはならない。

 

 あぁ,もうそろそろ仕事を始めなければならない。ぜんまいざむらいのように,「今日もキリッとまいります。」(笑)

2009/05/14

[カテゴリ]

 

 数年間,ブルックナーとマーラーの音楽にうなされていた後,恐らく平成4年頃から数年間の間に,相次いで当代一流のピアニストの生演奏を聴く機会に恵まれた。ヴラディーミル・アシュケナージとマウリツィオ・ポリーニの2人である。テクニックも,音色も,音楽に対する真摯さも,どれをとっても全く素晴らしいピアニスト。大げさかもしれないが,同時代に生まれ合わせたこと,生でその演奏を聴く機会を得たことを本当に光栄に思っている。

 

 アシュケナージの演奏は,確か,金山の名古屋市民会館(旧名称)で聴くことができたと思う。今となってはそのプログラムは思い出せないが,見たところは小柄でひょうひょうとしていて,すごくシャイな感じだった。プログラムの中には,ベートーヴェンのピアノソナタが1曲含まれていたと思うが,本当に素晴らしい演奏で感動した。音色に独特の響きと暖かみを感じた。アシュケナージは,1955年のショパン国際ピアノコンクールで第2位に輝いているのだが,この時彼こそが優勝者だとの評価をしていたアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが審査員を辞するという,いわくつきの大会だった。第2位ではあったが,その後のアシュケナージのピアニストとしての活躍,評価,名声は改めて言うまでもない。また,彼の指揮者としての実績も素晴らしい。実はピアニストとしてのアシュケナージに心酔していた僕は,アシュケナージ指揮のレコードを購入することを躊躇していた。でも,彼がアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(現在のロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)を指揮したラフマニノフの交響曲第2番を聴いたとき,「ああ,やっぱりこの人もラフマニノフと同様,ロシアの大地が心象風景として存在しているのだな。」と思った。これも実に素晴らしい演奏なのである。

 

 ポリーニのピアニストとしての凄さは今さら言うまでもない。世界屈指。ポリーニは,18歳の時,1960年のショパン国際ピアノコンクールで優勝し,その後充電期間を経て,国際的な活躍をしてきた。彼の生の演奏は,確か,上野の東京文化会館で2度聴く機会を得た。これも今となっては,プログラム内容を思い出せないが,やはりベートーヴェンのピアノソナタが含まれていたと思う。それまでにポリーニが録音したショパンの「練習曲集」,「前奏曲集」などを聴いて憧れの存在だったのだ。実物を見たときは胸が高鳴った。正確無比なテクニック,音色の美しさが際だっていた。僕は前衛音楽は苦手だが,もう一度,ベートーヴェンかショパンの曲をポリーニの生演奏で聴いてみたい。

 

 あっ,そうそう。思い出した。同時代に生まれ合わせたこと,生でその演奏を聴く機会を得たことを本当に光栄に思えるピアニストとして,タチアナ・ニコラーエワがいる。平成3年か4年に,やはり上野の東京文化会館で,J.Sバッハの「平均率クラヴィーア曲集」を聴く機会に恵まれたのである。第1巻だったか,第2巻だったかは思い出せないが,いずれにしてもどちらかの全曲であった。バッハ弾きとして世界的に高い評価を得ていたピアニストであり,その素晴らしい演奏の,歴史の証人になったような感じがした。ニコラーエワはその当時既に67,8歳だったと思うが,全く衰えを感じさせなかった。アンコールにはスクリャービンか何かの曲を目の覚めるようなテクニックで弾いていたことを今も覚えている。残念なことに,彼女はこの演奏の1,2,年後に急逝してしまった。この演奏に巡り会えたのは貴重な体験だった。

2009/05/12

[カテゴリ]

 

 日本の話芸にもいろいろのものがあり,それぞれ極めて魅力的だが,とりわけ落語が好きである。先日の東京旅行でも,落語だけは必ず鑑賞しようと意気込んでいたんだけど,お客が満員で「立ち見」となればしぶしぶ断念せざるを得なかった。

 

 東京勤務時代も,司法修習生だった頃も,暇があれば鈴本演芸場や末廣亭に足を運んでいた。落語は日本の素晴らしい伝統文化の一つだとつくづく思う。是非またその芸を見たいなと思う落語家の一人に,柳亭燕路(七代目)がいる。少し前に,鈴本演芸場に行ったときに,たまたま柳亭燕路の「やかんなめ」に遭遇した。「腹を抱えて笑う」という言葉があるが,このときは本当に腹が痛くなるほど笑った。本当に腹筋がつりそうになったほどだ。役者で言うなら「はまり役」という言葉があるが,この「やかんなめ」という演目と柳亭燕路とは正にピッタリである。失礼を承知でいうと,柳亭燕路の首から上は,正に「やかん」風である。それに,この柳亭燕路の武士言葉も小気味がいいし,何より表情が豊かである。話の中で,徐々に自分に期待されていることがら(状況)・・・・・すなわち,癪もちの大家の女房の苦痛を和らげるためにやかんのような自分の頭をなめさせること・・・を自覚していき,それを実行させるまでの非常に困惑した表情が例えようもなく面白いのである。あぁ,もう一度,柳亭燕路の「やかんなめ」が見てみたい!

 

 それにしても,本当に残念なのは落語の番組が極めて少ないことである。本格的なのは,せいぜいNHKの「日本の話芸」くらいのものであろう。もっと落語番組が増えていくことを切に願っている。先日テレビを見ていたら,スーパーマリオか何かのゲームに若手のお笑い芸人等が次から次に挑戦し,順位を競うという内容の番組が民放で放送されていた。「おいおい,ここはゲームセンターか!」と思った。何やら,ゲームセンターで友達同士が自分の腕前を見せっこするかのような状況を,日本全国に電波で流しているような感じがして,情けなくなった。せめて,そのような時間帯のごく一部でも落語番組に譲ってよー。

2009/05/11

[カテゴリ]

 

 僕のゴルフのことである。ここんとこ,本当に,ゴルフにならないスコアというか,スコアにならないゴルフというか(どっちでもいいか(笑)),低迷していたのである。超低空飛行,安値安定という状態で推移してきたのだが,去る5月6日と5月9日(おととい)のラウンドでは,嬉しいことに復調の兆しがみられた。もう底は打った感じで,これからは慢心しない限りは復活する予感がある。ただ,まだまだ恥ずかしくてスコアまでは披露できないが・・・・・。

 

 自分で言うのも何だけど,僕の場合,グリーン上のパッティングにはそれほど問題はないと思っている。何が悪いかというと,ドライバー(ティーショット)とアイアンである。・・・・・じゃあ,結局ほとんど悪いということか(笑)。具体的に,ドライバー(ティーショット)とアイアンのどのような点が悪いのか。両者に共通した悪い点として自覚しているのは,ひとことで言うと,「早打ち」ということである。

 

 ショットをする時,まずは素振りをする,スタンスする(構える),バックスイングを始める,クラブヘッドがトップの位置に来る,リリースしてスイングを始める,インパクトの瞬間を迎える,振り抜く(フォロースルー)という過程を経ていくのであるが,僕の問題は,クラブヘッドがトップの位置に来た直後にすぐさまリリースしてしまうのが悪い癖。要するに早く打ち過ぎるということ。自分の技術に自信がなく,早く結果(できれば「良い」結果!)を出したいと思うもんだから,一刻も早くインパクトの瞬間を迎えたいという心理が働いてしまうのだと思う。こういう時は,決まってミスショットとなる。このことは自分でもよく分かってはいる。よく分かってはいるのだが,なかなか自分を制御できない。そうではなくて,クラブヘッドがトップの位置に来た時に一呼吸を置き(はやる気持ちを抑えて),リリース開始時もインパクト時も力まずにゆっくりとスイングをすれば良いのである。今振り返っても,こういう時には非常に良いショット(結果)が生まれる。惨憺たるスコアに泣いていた時は「早打ち」のオンパレードであったし,逆に復調の兆しのある最近の2ラウンドでは,「早打ち」率が相対的に低くなっているのだ。

 

 さて,練習場ではちゃんと良いショットができるのに,本番では「早打ち」(力みも含む)が出てしまうのは何故であろうか。練習場では僕のショットなど誰も見ておらず,いわばノン・プレッシャー状態。でも本番ではそうはいかない。要するに,本番でも「プレッシャーに負けない不動の心」を持ち,実践しなければならないということである。僕の経験からすると,①ドライバーでのティーショットを失敗して(いわゆる「チョロ」),7~80ヤードしか飛ばず,セカンドショットでかなり距離を稼がなければと思う時,②トラブルショットが続いて同じパーティーの同伴者を待たせてしまっている時,③素晴らしいドライバーショットの後,この一打(しかも得意のクラブ)の結果次第ではパーオンできるというような時,④同じパーティーの中の美人の前でいいところを見せたいなというような時,だいたいは「早打ち」,「力み」の悪い癖が出てしまう。

 

 くどいようだが,僕のゴルフもようやく復調の兆しがあり,今後も,クラブヘッドがトップの位置に来た時に一呼吸を置き(はやる気持ちを抑えて),リリース開始時もインパクト時も力まずにゆっくりとスイングしさえすれば,ハッ,ハッ,ハッ,往年の輝きが戻ってくること必定である(笑)。

ブログ内検索

カレンダー

2009年5月
« 4月   6月 »
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

カテゴリー


PAGE TOP