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2023/04/24

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唐突ですが,以前から徒然草のこの段の死生観に共感を覚えておりましたので,ご紹介いたします。みなさま,一日一日を大切に生きてまいりましょう。

 

(原文)(徒然草第155段)

「世に従はん人は、先づ機嫌を知るべし。ついで悪しき事は、人の耳にもさかひ、心にもたがひて、その事ならず。さやうの折節を心得べきなり。但し、病をうけ、子をうみ、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、ついで悪しとてやむことなし。生・住・異・滅の移りかはる、実の大事は、たけき河のみなぎり流るるが如し。しばしもとどこほらず、ただちに行いひゆくものなり。されば、真俗につけて、必ず果し遂げんと思はん事は、機嫌をいふべからず。とかくのもよひなく、足をふみとどむまじきなり。

春暮れてのち夏になり、夏果てて秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は則ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、先ず落ちて芽ぐむにはあらず。下よりきざしつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、待ちとるついで甚だはやし。生・老・病・死の移り来る事、又これに過ぎたり。四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つこと、しかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。」

 

(現代語訳)

「世間の大勢に順応して生きようとする人は、まず時機を知らなくてはならない。折にあわぬ事柄は、人の耳にもさからい、心にもそむいて、その事柄が成就しない。そのような時機を心得るべきである。もっとも病気になり、子を産み、死ぬといったことだけは、時機を考慮することがなく、順序がわるいからといって、中止することはない。生・住・異・滅の四相が移り変ってゆくという真の大事は、水勢のはげしい河が、満ちあふれて流れるようなものだ。少しの間も停滞することなく、たちまち実現してゆくものである。だから、出世間につけても、俗世間につけても、必ず成し遂げようと思うようなことは、時機を問題にしてはならない。あれこれと準備などせず、足を踏みとどめたりしてはならないことである。

春がくれて後、夏になり、夏が終ってしまってから秋が来るのではない。春は春のままで夏の気配をはらみ、夏のうちから早くも秋の気配は流通し、秋はそのままでもう寒くなり、陰暦十月は小春日和になり、草も青くなり、梅もつぼみをつけてしまう。木の葉の落ちるのも、まず葉が落ちて、その後に芽を出してくるのではない。下から芽ぐみきざす力にこらえきれないで、古い葉が落ちるのである。迎えうけている気力を下に準備してあるので、待ちうけて交替する順序が、たいそう早いのだ。生・老・病・死のめぐってくることは、また四季のそれ以上に早い。四季の推移には、それでも、春・夏・秋・冬という、きまった順序がある。死の時期は順序を待たない。死は前からばかりは来ないで、いつの間にか、後ろに肉薄しているものだ。人はみな、死のあることを知りながら、死を待つことが、それほど切迫していないうちに、思いがけずにやってくる。沖の干潟は遠く隔っているのに、足もとの海岸から潮が満ちてくるようなものである。」(新版日本古典文学全集第44巻【小学館】205頁~206頁)

2023/03/06

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先日,飲み会の集合時間にはまだ時間がありましたので,大きな書店に立ち寄って特にお目当ての本があるというのでもなく,店内をブラブラしておりました。最近はノンフィクション系の本ばかりを読んでおりましたので,たまには小説もいいかと思い,買ってしまったのは田山花袋と谷崎潤一郎の文庫本でした。

 

田山花袋の方は「蒲団」と「重右衛門の最後」の2編が入っており(新潮文庫),谷崎潤一郎の方は「刺青」,「少年」,「秘密」,「幇間」,「悪魔」,「続悪魔」,「神童」,「異端者の悲しみ」という短編が入っているものです(角川文庫)。谷崎の方は学生時代に読んだことがあって何となくまた読みたいなと思って手にし,田山花袋の方は自然主義文学の先駆けの一人ということで,一度読んでみようかと思いました(私の記憶に間違いがなければ,高校時代の現代国語の先生が「蒲団」のことを語っておりました。)。

 

「蒲団」というストーリーは何やら切ないものがありますね。これは花袋本人の実体験が記されている,思い切った独白,そして日本初の「私小説」とも言われております。主人公は33歳前後の既婚の文学者で,3人の子どもがいますが,単調な日常生活に倦み,妻との結婚生活もいわゆる倦怠期を迎えている中で,熱心に乞われたためある女学生を弟子として受け入れます。主人公はその女性の弟子を自分の姉の家に住まわせますが,彼女に恋をしてしまいます。

 

ところが,その後彼女には同年齢くらいの男友達ができ恋仲になっていることが発覚するや,主人公は既婚であるにもかかわらず狂おしいまでに嫉妬します。主人公は,表面上は「先生」,「師匠」としての威厳を保ちつつも,実は男として嫉妬に狂い,その女学生の親御さんを巻き込んで何とか2人の関係を断絶させようとします。

 

その心理描写が何とも切ない。結局その女学生は,親御さんに連れられて田舎へ帰っていくのですが,その後の主人公の喪失感も相当なもの・・・。「性慾と悲哀と絶望とが忽ち時雄(主人公)の胸を襲った。時雄は(弟子である女学生が使っていた)その蒲団を敷き、夜着をかけ、冷たい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。」のです。

 

なんとも切ないですね。ところで,この文庫本の末尾にある福田恆存の解説がまた切ないのです。ご存知,福田恆存といえば文芸評論家,翻訳家,そして保守の論客です。普通は,本の末尾の解説の部分というのは,その作品の価値を評価し,作者をある程度讃える内容のものが多いと思うのですが,意外に冷淡な内容に思えるのです。これが切ない・・・。

 

「おもうに『蒲団』の新奇さにもかかわらず、花袋そのひとは、ほとんど独創性も才能もないひとだったのでしょう。」,「花袋はあくまで芸術作品を創造するひとであるよりは、芸術家の生活を演じたがったひとであります。」,「芸術作品を生むものを、われわれは芸術家と呼ぶのであって、芸術家というものがはじめから存在していて、かれが生んだものを芸術作品と呼ぶのではない。」,「かれはそういう意味において、文学青年の典型でありました。」

 

解説の最後に花袋を評価する部分もありますが,巻末の解説としては内容的には冷淡な感じがします。誠に切ない。

2023/02/17

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私は新聞の書評欄を読んで衝動的に通販で書籍を購入することが多いのですが,時には失敗する時もあります。あれ?思っていた内容と違うなという場合には,処分に困っている私のために,うちのカミさんが「もったいないなぁ。」と苦言を呈しつつも,メルカリで売ってくれます(笑)。

 

そんなことが続いたので,肩身の狭い私は先日,家にある蔵書の中から「何か良い本はないかな。」と探してみました。家にある蔵書というのは,要するにまた読んでみたい本の集まりですから,いろいろな本があって次に何を読むか迷いましたが,ありました,ありました。「10歳の放浪記」(上條さなえ著,講談社)という本です。これは名著です。間違いなく名著です。

 

読みながら思わず泣けてくる箇所があるのですよ。とても共感できる部分が多く,読者である私が著者の幼少期(10歳前後)の生々しくも辛い日々をあたかも追体験しているかのような感動的な箇所が・・・。

 

昭和35年,当時10歳だった著者(上條さなえさん)は,借金取りから逃れるために家族全員(父と母,異父姉と著者)が夜逃げ同然の悲惨な状態になります。最初は母方の九十九里浜の親戚に一人ぼっちで預けられます。すぐに迎えに来るからとの母の言葉を信じて,毎日毎日1日3便のバスが到着する時刻になるごとに,バス停に行ってはがっかりして帰宅する。その数か月後,今度は父親に引き取られ,池袋界隈のどや街で1泊100円の簡易宿泊所に父親と寝泊りします。クラスメートとは別れたままで,小学校にも通うことができません。とても切ない。

 

どや街で暮らしていた時期,日雇いの仕事をしている父親の帰りを待つ昼間は,空腹の中で時間をつぶさなければなりません。電車に乗ってぐるぐる回ったり,切符売り場の人に「中にいるお父さんを探しに行っていいですか?」と嘘をついて,映画館で映画を観て時間をつぶす毎日・・・。生きるのに疲れ果てた父親から,寝転んで天井を見上げながら「なこちゃん、死のうか。」とポツリと言われたり,「もう金がないんだ。明日の朝十時にここを出たら、行く所がないんだよ。」と告げられたり,子ども心にショックな出来事の連続なのです。ヤクザだけれど気の優しいパチンコ店のお兄さんからパチンコ玉を出してもらって,お父さんのために弁当を買って帰ったり・・・。10歳ながら気丈に,逞しく生きていく幼少の著者の生き様に勇気を与えられることも多い内容です。

 

結局,お父さんとの約1年間の放浪生活の末,著者は児童養護施設に入り,そこから1年遅れで小学校に通うことができるようになったのです。その後は高等教育も受け,小学校教員を経て文筆家になり,教育委員会の委員長にも任命されるまでになりました。

 

人生,気の持ちようで何とかなるもんだなと思います。読んでいてとても切ないけれど,そして時には涙が出てくるけれど,読者を鼓舞し,勇気づける名著だと思いますよ。「10歳の放浪記」(上條さなえ著,講談社)・・・是非読んでみてください。

2022/12/30

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いよいよ年の瀬も押し迫ってまいりました。世間では大掃除,買い出し,挨拶,残務整理などなど慌ただしい雰囲気だと思いますのに,今日のブログでは浮世離れの,のんびりとした話題となってしまいました。

 

このブログでもたびたび登場したのですが,皆さんは種田山頭火という漂泊の俳人のことをご存知でしょうか。その俳句は自由律非定型句なのですが,いわゆる境涯句が多く,昔から何となく心惹かれるものがあるのです。今の季節で思い出す句をいくつか紹介しますと・・・

 

「うしろすがたのしぐれてゆくか」

「鉄鉢の中へも霰」

「けふもいちにち風をあるいてきた」

「だまつて今日の草鞋穿く」

 

今年の春にうちのカミさんと一緒に松山・道後温泉を旅行したことがあるのですが,この道後温泉のすぐ近くにあった「一草庵」が山頭火の終焉の地です。この旅行先で衝動買いした本が「山頭火と松山-終焉の地・松山における山頭火と人々」(NPO法人まつやま山頭火倶楽部編,アトラス出版)ですが,これがなかなかディープな内容でとても良い本でした。これまで山頭火の評伝や句集などはかなり読みましたが,この本に書かれていることは今まで知らなかった興味深いものも含まれております。例えば,酒に酔いつぶれた山頭火に関する記述の次のような箇所です(同書116頁)。

 

「この宝厳寺には、山頭火の別のエピソードも残っている。ある夏の日、地蔵院の水崎玉峰和尚が宝厳寺の山門あたりを通りかかると、酔いつぶれた老人が前をはだけて転がっていて、近所の悪童たちが棒きれで、その老人の一物をあっちへやったりこっちへやったりしている。見ると、山頭火だったので急いで助け起こし、一草庵まで送り届けたというのである。山頭火はこんなふうに、寂しい庵での孤独に耐えられなくなると、一人で酒を飲み、前後不覚になるまで泥酔した。」

 

高度経済成長期の昭和40年代初めころでしたかね,いわゆる山頭火ブームが起こったのは・・・。当時は「蒸発」なんて言葉が流行ったりし,長時間労働の仕事に疲れ果て,妻子への夫・父親としての責任も感じ,ある時もう何もかもが嫌になって突如として出奔するという現象が少なからず発生した時代でした。その頃山頭火ブームが生じたということは,行雲流水,行乞流転の旅を続けた山頭火のような生き方にどこか憧れを抱いた人も多かったのではないでしょうか。

 

でもそのような山頭火の生き様や境涯句に共感や一種の憧れを感じながらも,彼のような生き方を実行に移すことはやはりできないでしょう。そのあたりのことは,この本でも指摘されています(同書39頁)。

 

「山頭火が残した日記は、彼の日々の動向を知る記録であるとともに、彼がどう生き、何に苦しみ、何に喜びを感じたかを知るよすがとなるもので、ある意味、肉声にも勝るものといえる。山頭火は『男の憧れ』を体現した人である。多くの人が彼の日記を読み、放浪の疑似体験をするわけだが、『人間は、こんなにもどうしようもない存在なんだ』という深い共感とともに、『やはり自分にはできない』と思わざるを得ないリアリティーが、この日記にはある」

 

種田山頭火,自由気ままである一方,苦悩に満ちた人生だったかもしれませんが,少なくとも「ころり往生」を享年58歳で遂げたことは幸せだったのでしょう。彼の9月2日の日記には,「私の述懐一節」と題し,「私の念願は二つ、ただ二つある、ほんたうの自分の句を作りあげることがその一つ、そして他の一つはころり往生である」と書かれており,彼は「一草庵」で「ころり往生」を遂げたからです。

 

松尾芭蕉や井上井月らの五七五の定型句ももちろん素晴らしいですが,山頭火や尾崎放哉らの非定型句もなかなかにいいものですよ。興味があったら是非味わってみてください。

 

来年もみなさんにとって良き年でありますように心より祈念いたしております。

2022/12/26

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今年も残り少なくなりました。そして今の季節のこの爆弾低気圧,すなわち寒波の物凄いこと・・・。私は冬場でもめったに手袋まではしないのですが,この寒さですから通勤時には手袋をしています。

 

12月25日,作家の渡辺京二さんが92歳で亡くなりましたね。心よりご冥福をお祈りいたします。もう10数年前になりますが,渡辺京二さんの「逝きし世の面影」(平凡社ライブラリー)という本を読んで本当に深く感銘を受けました。それ以来,私は人から何かお薦めの本はないかと尋ねられたら,必ずこの本も薦めるようにしています。それくらい素晴らしい本なのです。この本の帯には「読書人垂涎の名著」と銘打たれています。そしてくどいようですが,私の記憶に間違いがなければ,やはり今年2月に亡くなられた石原慎太郎さんも,この名著について「これはもう現代人必読の名著である!」と評していたと思います。

 

この本の章立ては,「ある文明の幻影」,「陽気な人びと」,「簡素とゆたかさ」,「親和と礼節」,「雑多と充溢」,「労働と身体」,「自由と身分」,「裸体と性」,「女の位相」,「子どもの楽園」,「風景とコスモス」,「生類とコスモス」,「信仰と祭」,「心の垣根」となっております。この日本には,かつては間違いなくこの本で描かれたような一つの貴重な,失いたくない文明が存在していたのです。願わくばこのような貴重で愛すべき文明のあり様を少しでも存続させたい。

 

この本は,近世から近世前夜にかけてを主題にし,幕末維新に訪日した外国人たちの滞在記を題材にしていますから,当時の文明のあり様の描写としては割と客観性があるでしょう。ウィキペディアには,数年前に亡くなられた評論家西部邁さんのこの本に対する評が次のように紹介されています。

 

西部邁は『逝きし世の面影』について「渡辺京二さんが『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)という本で面白いことをやっていまして,幕末から明治にかけて日本を訪れたヨーロッパ人たちの手紙,論文,エッセイその他を膨大に渉猟して,当時の西洋人が見た日本の姿-いまや失われてしまった,逝きし世の面影-を浮かび上がらせているのです。(中略)この本を読むと,多くのヨーロッパ人たちが,この美しき真珠のような国が壊されようとしていると書き残しています。」と評した。

 

どうです,皆さん。おそらくは時間的に余裕のあるこの年末年始,ゆっくりとこの名著を味わってみては。確かにページ数の多さは克服しなければなりませんが(笑),内容的には決して後悔はさせませんよ。

2022/09/26

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もう数か月前ですが,産経新聞の書評欄で「日本の民俗-暮らしと生業」(芳賀日出男著,角川ソフィア文庫)という本が紹介されており,それ以来何かしら気になっていたのでこのたび読んでみました。じっくりと日本の民俗に関する重厚な文章,記述に触れられると思っていましたら,内容的には写真集に近いものでした。確かに,著者の芳賀日出男さんは写真家なのであり,写真が中心となるのは当然でしょう。

 

でも,その一方で芳賀さんは,かつて学生として民俗学者折口信夫の講義を受講したこともあり,民俗学にも造詣が深いので,写真とともに記載されている文章もとても参考になります。最初は写真だらけだったので,「あれっ?」と思ったのですが,何よりも写真は直截的に人に訴えるものがあり,日本の民俗を伝えるにはむしろ格好の媒体ではないかと思いました。

 

「正月」,「盆行事」,「稲作」,「漁村の暮らし」,「海女」,「巫女」,「人形まわし」,「木地師」,「さまざまな生業」・・・などといった章立てで,どの写真も懐かしい風景ばかりです。私も幼少のころ2年ほど熊本県の田舎で暮らしたことがありますが,確かに当時熊本県の田舎でも寒い小正月の頃,五穀豊穣を祈って「もぐら打ち」という儀式がありました。本当に懐かしい・・・。子供たちが一軒一軒周り,「もぐら打ち」を行ってはお菓子などのご褒美をいただくというやつです。

 

私は昔から日本の民俗に興味があり,これまで柳田國男や宮本常一の著作を何冊か読んだことがありますが,このような写真集もまた格別の味がありますね。この本には,ヨーゼフ・クライナー(ボン大学名誉教授)の序文が掲載されており,「柳田・折口先生の言われる日本の民俗の固有性は、世界の民俗のなかに相対化されることによって、その独自性が一層浮彫りにされてくる。」との記載がありますが,同感です。

 

ちょうど先日,台風と台風の合間に仕事で2泊3日の行程で島根県まで行きました。台風のせいで収穫間際の稲が倒れている場景もありましたが,日本の原風景のような美しくも懐かしさのある風土を目の当たりにしました。この緑豊かな島根県に限らず,「限界集落」などといわず,何とか伝統と日本固有の習俗を維持し,この日本の美しい自然を保っていきたいものです。そして,仕事もちゃんとしましたが,仁多米や日本酒(玉鋼など)の美味しさを味わい,宍道湖の美しさと大和しじみの美味しさも味わいました。ありがたいことです。

 

日本の民俗に興味がありますが,そういえば,これも前々から読んでみたいと思っていた書物に「古風土記」というものがあります。これは奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して,天皇に献上させた報告書ですが,写本ではあるものの,「出雲国風土記」がほぼ完本,「播磨国風土記」,「肥前国風土記」,「常陸国風土記」,「豊後国風土記」がそれぞれ一部欠損した状態で残っているそうです。今度ひまな時に読んでみたいと思っております。

2022/07/19

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世界は広いし,ノンフィクションの分野でも世の中には本当に傑出した作家がいるものだとつくづく思いました。ダグラス・マレーというイギリスのジャーナリスト,政治・社会評論家,ノンフィクション作家のことです。

 

 

「大衆の狂気-ジェンダー 人種 アイデンティティ」(ダグラス・マレー著,山田美明訳,徳間書店)という本を読んでその感を深くしました。この本の高い評価については,目次の前に掲載されている識者などからの様々な賛辞を目にすれば分かると思います。いくつかご紹介しましょうか・・・。

 

「本書の内容を知らないでいられるだろうか?実際、たったいま読み終えたところだ。こんな本の存在を知って、読まないでいられるわけがない」(トム・ストッパード【イギリスの劇作家】)

 

「マレーの最新刊は、すばらしいという言葉ではもの足りない。誰もが読むべきだし、誰もが読まなければならない。ウォーク(訳注/社会的不公正や差別に対する意識が高いこと)が流行するなかではびこっているあきれるほどあからさまな矛盾や偽善を、容赦なく暴き出している」(リチャード・ドーキンス【イギリスの動物行動学者】)

 

「著者は、誰もがすでに何となくわかっているが言い出しにくいことを言う術(すべ)に長(た)けている(中略)主張も、立証も、視点もいい」(ライオネル・シュライバー【イギリス在住のアメリカ人作家】)

 

「アイデンティティ・ポリティクスの狂気についてよくまとめられた、理路整然とした主張が展開されている。興味深い読みものだ」(タイムズ紙)

 

「マレーは、疑念の種をまき散らす社会的公正運動の矛盾に切り込み、大衆の九五パーセントがそう思いながらも怖くて口に出せないでいたことを雄弁に語っている。必読書だ」(ナショナル・ポスト紙(カナダ))

 

ざっとこんな具合です。私もこの本を読破して,ダグラス・マレーのこの労作については見事な筆致,正鵠を射た主張,十分な立証だったと思います。いわゆるLGBTや人種,そしてジェンダーをめぐる議論については,マスコミ,社会あるいは大衆の同調圧力が極めて強く,アイデンティティ・ポリティクスによる政治活動には疑問すら差し挟むことができないかのような言語空間が形成されていて,極めて窮屈だと感じておりました。正にこの作家は,「疑念の種をまき散らす社会的公正運動の矛盾に切り込み、大衆の九五パーセントがそう思いながらも怖くて口に出せないでいたことを雄弁に語って」くれたのであり,私は快哉を叫んだのです。

 

実はこのノンフィクション作家の凄さを知ったのは,前作と言っていいのかな,「西洋の自死-移民・アイデンティティ・イスラム」(ダグラス・マレー著,中野剛志解説,町田敦夫訳,東洋経済新報社)という大著を読んで深く感動したからです。やはりこの労作も見事な筆致,正鵠を射た主張,十分な立証に基づくものでした。私は密かにマレーの次作を期待していたのです。彼が当代一流の傑出したノンフィクション作家であることは疑いないでしょう。

2022/01/06

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皆様,新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。今年こそはこのブログの更新頻度を高めていきたいと思います(笑)。

 

実は年末年始にかけて,ある刑事事件の控訴趣意書を完成する必要に迫られており(提出期限は令和4年1月5日),精神的には重圧感を覚えていたのですが,それも1月4日には何とか完成し,5日には無事高等裁判所に提出完了と相成りました。期限を徒過しますと,それだけで控訴棄却になってしまうので現在の解放感は半端ではありません。

 

相当に目が疲れてはいたのですが,食い入るように「雲上の巨人 ジャイアント馬場」(門馬忠雄著,文藝春秋)という本を読破しました。どうしても読まなきゃと思った理由を述べれば,産経新聞の書評欄で藤井聡さん(京都大学大学院教授,評論家)が次のような熱い,熱い書評を書いておられるんだもの・・・(笑)。

 

「評者が青年の平成の頃、ジャイアント馬場といえばバブル崩壊以後、底が抜けたように崩れ去っていく日本社会の中にあって古き良き日本を象徴する数少ない巨大な存在だった。・・・馬場さんこそがこの戦後日本で急速に絶滅しつつある『古き良き日本人』だったのであり、戦勝国・米国に決してこびず文字通り対等に渡り合うことのできる『誇り高き日本人』だったというところにあった。・・・馬場さんを好きだった人はもちろんのことあらゆる世代の人々もまた、本書を通して馬場さんの佇(たたず)まいに触れてみてはいかがだろうか。決して損はない。馬場さんはそれだけの人物なのだ。そんな本書をぜひ、一人でも多くの日本の皆さまに手に取っていただきたい。評者はそう、切に願う。

 

ねっ,とても熱いでしょ(笑)。私はすぐに購入して詠んでみました。やはり損はありません。私もこれまでのところ人生の約半分を「昭和」で過ごしてきた人間ですが,やはりジャイアント馬場という人は長嶋茂雄と並んで国民的大スターであったし,やはり昭和の古き良き人なのです。筆者(門馬忠雄さん)は,かつて東京スポーツの記者であり,プロレス担当もとても長く,プロレスの巡業先や仕事面全般,そしてプライベートでもジャイアント馬場と深い親交を続け,その期間は35年の長きにわたっているのですから,「馬場さんらしさ」全開のエピソードの一つ一つ,そして馬場さんの人となりを読者に伝えるのに最適な人です。

 

「なあ、モンちゃん、あんまり飲むなよな・・・・・」

 

これは生前,馬場さんが筆者にその体を心配してたびたびかけた言葉で,馬場さんの思いやり,やさしさが窺えるエピソードですが,そんなシーンが盛りだくさんです。高校を中退して読売巨人軍に入団したのですが,二軍暮らしが長く,その3年目に視力が急速に衰え,脳腫瘍の手術をするために入院せざるを得なくなった。その入院までの間,馬場さんは,巨人軍の合宿所近く,多摩川の土手の河原で,

〽俺は河原の 枯れすすき・・・と,「船頭小唄」ばかりを泣きながら何度も繰り返し歌っていたというエピソードなどもあります。

 

それでも人生どう転ぶか分かりません,力道山に見いだされてプロレスの世界に入り,その後の大活躍,国民的ヒーローぶりはみなさんご存知のとおりです。

 

それにしても馬場さんは,プロレスラーとしては死の直前まで現役を貫いたことになります。そのこなした試合数たるや,5758戦というから,正に鉄人であり,私はこういう「気は優しくて力持ち」という存在に憧れます。

 

この本の帯には次のような文句が記載されています。

 

「僕たちは、馬場さんが好きで好きでたまらなかった。」

 

勇気を与えてくれる本ですよ。是非ご一読を!

2021/11/04

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「人間臨終図鑑 第1巻~第4巻」(山田風太郎著,徳間文庫)という本がありますが,私は最近これを読み始め,昨日第3巻目に入ったところです。産経新聞の書評欄にこの本が紹介されていたので,直ぐにこの本を買い求めて読み始めたという訳です。

 

どの巻も440ページ前後ありますので,しめて1760ページほどになります。相当に読みごたえというものがありますよ。「○○歳で死んだ人々」・・・などと区分され,古今,洋の東西を問わず,著名人(政治家,軍人,武将,作家,俳人,音楽家,画家,俳優,僧侶,思想家(哲学者),科学者,スポーツ選手,芸能人,犯罪者などなど)の略歴や業績,エピソード,今際(いまわ)の時が描写されています。

 

この本の特徴を言い表すのはなかなか難しいのですが,巻の背表紙の短い文章をご紹介した方が分かりやすいかもしれません。

 

「戦後を代表する大衆小説の大家、山田風太郎が、歴史に名を残す著名人(英雄、武将、政治家、作家、芸術家、芸能人、犯罪者など)の死に様を切り取った稀代の名著。15歳~49歳で死んだ人々を収録」(第1巻背表紙)

 

「偉人であろうが、名もなき市井の人であろうが、誰も避けることができぬもの・・・・・それが死。巨匠が切り取った様々な死のかたちは、読む者を圧倒する。50歳~64歳で死んだ人々を収録。」(第2巻背表紙)

 

「荘厳、悲壮、凄惨、哀切、無意味。形はどうあれ、人は必ず死ぬ。本書のどの頁を開いても、そこには濃密な死と、そこにいたる濃密な生が描かれている。65歳~76歳で死んだ人々を収録。」(第3巻背表紙)

 

第4巻の背表紙は省略しますが,この巻には77歳~121歳で死んだ人々が収録されております。まあ,いろいろな死がありますが,著者(山田風太郎)の言葉を借りれば,「どんな臨終でも、生きながらそれは、多少ともすでに神曲地獄篇の相を帯びている。」とも言えますね・・・。ダンテの「神曲」です。

 

でも,地獄には行きたくないなあ(笑)。「神曲」では,地獄への入口の門には「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の銘文が刻まれており,怖いどころの騒ぎではありませんからね。

 

誰にでも平等に死は訪れますが,その死に様について自分の場合はどうだろうかと案じてしまいます。この本を読むといろいろと考えさせられます。ジタバタして見苦しく振る舞うのか,それとも従容として死出の旅につくのか。できれば後者であって欲しいと思います。

 

2021/10/05

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自民党総裁選も終わり,新内閣が発足しましたね。その総裁選の結果ですが,河野太郎氏が選出されなかったのは何より不幸中の幸いでした(笑)。くどいようですが,こういう人が日本国の首相になってはいけない。もっとも,実はかつては,あろうことか鳩山由紀夫や菅直人がそういう地位を占めたこともある訳ですから,連綿たる日本国の歴代宰相の歴史としてはもう失うものがないのですがね(笑)。

 

さて,恐るべき世論調査の結果からすれば,先の総裁選では党員・党友票で圧倒すると思われていた河野氏が第1回投票では1位になるのは確実と予想されていたのですが,ふたを開けてみたら2位に終わりました。さらに,河野氏は党所属国会議員票では高市早苗氏にも軽々と抜かれ,3位に甘んじました(86票に過ぎません)。下馬評とは大いに相違し,河野氏サイドとしては,さては投票の約束を取り付けていた人々にも一部裏切られてしまった,寝返られてしまったというのが実情かもしれません。

 

それにしても総裁選の投開票の翌日,9月30日付けの産経新聞「産経抄」の内容はとても面白いものでした。裏切り,寝返りという文脈で,菊池寛の「入れ札」という短編小説に言及していたのです。興味を持ったので,どんな小説なのか調べてみました。以下のとおりです。

 

代官を斬り殺した国定忠治は捕縛から逃れるために,上州・赤城山から榛名山を越えて,信州へ下っていくべき運命にありました。そう,「赤城の山も今宵かぎり」の国定忠治です。一行は親分の忠治を入れて12人。子分は11人ですが,全員連れて行く訳にはいかない。忠治としては,3人ほどの子分を連れ,その他の子分達にはそれなりのお金を与えて銘々思い通りに落ち延びさせてやりたかった。でも忠治としては,本当は共にしたい意中の子分(3名)はいたのだが,自分の口からはその名を言い出せない。子分達の意見を聞くうちに,忠治は「入れ札」という手段を思いついた。

 

その「入れ札」のルールは,本当に忠治(親分)の御供としてふさわしい子分の名1名をそれぞれ子分達に札に書かせ(自分の名を書いてはいけない),いわば自民党総裁選のように投票し(笑),札数の多い者から上位3人を連れて行くというもの。その方法を「やばいなー。いやだなー。」という気持ちで聞いていたのが,子分の中では古参,年長で第一の兄分とされていた稲荷の九郎助だった。彼は一応他の弟分からは「阿兄!(あにい)」と立てられてはいたものの,実際には人望がなく内心では軽んじられていたし,そのこと自体は九郎助も自覚していた。九郎助としては,やはり古顔の弥助からは「好意のある微笑」を投げかけられ,自分に1票投じてくれるとしたらこの弥助くらいかなと半ば諦めていた。でも自分のプライドを保つため,そして他のライバル(人望のある浅太郎)に対する嫉妬心から,思わず「くろすけ」と自分の名前を書いた(掟破りの自己投票)。

 

さて,いよいよ開票・・・。子分から入れられた11枚の札は,浅太郎に4枚,分別盛りの軍師・参謀格である喜蔵に4枚,怪力の嘉助に2枚,九郎助に1枚という結果だった。お供をする子分は忠治の意中どおり,浅太郎,喜蔵,嘉助に決定した。九郎助としては,「好意のある微笑」を投げかけた弥助の1票と自分で入れた1票で何とか選ばれることを期待したが,実際には弥助からも裏切られ,寝返られたのだ。その悔しさと自分で入れた後ろめたさや卑しさの気持ちでいたたまれなくなった。

 

忠治は3人の子分を連れて信州方面へと出発。その他の子分は銘々の方角へ。九郎助としては秩父の縁者を頼ることにしてトボトボと歩き始める。そうしたところ,あろうことか裏切った弥助が九郎助に同道を頼み,その道中,述べた言葉が九郎助を激怒させ,思わず殺意を覚えさせたが,九郎助はグッと我慢しなければならなかった。弥助は「親分があいつらを連れて行くのは納得できねえ。11人のうちでお前(九郎助)の名前を書いたのはこの弥助1人だと思うと、奴等の心根がわからねえ」と述べたのである。大嘘(笑)。

 

無記名投票なので(笑),九郎助としては弥助が九郎助に1票入れたと大嘘を言っていること,裏切ったことを暴くことができません。それを暴き,立証するには九郎助自身がルールを破って「くろすけ」と自分に1票を投じたことを告白するしかなく,それも自分の恥をさらすことになり,ますます惨めになってしまうからです。

 

菊池寛の「入れ札」はそんなお話でした。人間の弱さ,醜さを浮き彫りにしたどこか切ない作品です。

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