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弁護士ブログ

2012/02/10

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 前にこのブログで,「墓標なき草原(上・下)」(楊海英著,岩波書店)という本のことをご紹介しました。実は昨年の8月には,その続編として「続・墓標なき草原」(楊海英著,岩波書店)という本も出版されていたのです。岩波書店という出版社は,私のイメージでは中国大好き,中国礼賛ということを昔から「社是」にしているような会社だと思っていました(苦笑)。それにしてはこの出版社が,この「墓標なき草原」という著作を出版したことは本当に意外でした。

 

 あの殺戮の文化大革命がようやく終息したのは1976年。考えてみますと,あの中国という国では今から僅か36年前までこんな戦慄の政治闘争を展開していたのですね。この「続・墓標なき草原」という本のサブタイトルには「内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録」とあるように,この本は内モンゴルにおいて展開された中国共産党による狂気の,そして戦慄の記録です。

 

 もともと毛沢東が発動した文化大革命というのは,政敵である劉少奇らのいわゆる「実権派」を粛清するためでしたが,その後は造反派,紅衛兵,軍などが入り乱れて想像を絶する混乱に陥り,批林批孔運動という方向まで進みました。でも,内モンゴルにおけるそれは,権力闘争というよりも,完全に漢族がほぼ無抵抗のモンゴル人を粛清,つるし上げた民族闘争だったと評価できます。「内モンゴル人民革命党員をえぐり出して粛清する運動」でした。この本の中で明らかにされている殺戮は,本当に,人間という存在はこれほどまでに残酷になれるのかと思わされる筆舌に尽くしがたいものです。粛清された内モンゴルの人々の慟哭が聞こえます。

 

 この本が著された意図,そして著者が述べたかったことを一言で述べれば,この本の内側の表紙カバーの記載を引用するのが最も適切です。

 

「前著『墓標なき草原』刊行後,著者の元に多くの関係者から新たな証言が寄せられた。いま、内モンゴルでは農耕化・都市化・地下資源開発による環境破壊と強制移住が進み、モンゴル人は『ネーション』ではなく『エスニック・グループ』とみなされ、『自治』ではなく多民族による『共治』が強調されるようになり、モンゴル固有の地名や歴史が漢族に見合ったものに改編されている。文化大革命期における内モンゴルの全モンゴル族を対象とした、今なお真相が明らかにされていないジェノサイドの実態を、被害者の直接証言を通して明らかにする。文化的ジェノサイドは今も続いている。」

 

 チベットでは中国共産党による不当な弾圧に抗議して僧侶らの焼身自殺が相次いでおります。ウイグルにおいても同様の不当な弾圧。内モンゴルにおいてもしかり。もともとチベットもウイグルも内モンゴルも中国の版図ではなかったものです。

 

 まとまりのない文章となりましたが,これらは一読をお勧めしたい本ですし,終章の冒頭にあるモンゴルの詩人の詩には胸を打たれました。

2012/01/20

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 私は日本人です→日本が誇る古典文学といえば「源氏物語」です→でも私は「源氏物語」の全体的なあらすじすら理解していません→それでは日本人として少し恥ずかしいような気もします→でも全部を読むには時間が・・・→そうだ!取り敢えずは漫画か何かで,せめてあらすじだけでも理解しよう・・・

 

 そんな訳で,前にもこのブログで触れましたが,とうとう漫画「あさきゆめみし」完全版(大和和紀著,講談社)の第1巻から読み始めました。なかなかいいですね。取り敢えず第1巻を読み終えたところですが,興味を持ち続けて読むことが出来ましたし,これならば大まかなあらすじは理解できます。ここまでの主な登場人物は,光源氏,桐壺の更衣,藤壺の宮,頭の中将,弘徽殿の女御,葵の上,六条の御息所,夕顔,惟光,紫の上,末摘花などが出てきました。そういえば,高校の古文の時間に少しばかり習ったなぁ,懐かしいなぁ,と僅かに思い出すようなシーンもあります。

 

 それにしても,こういう女流文学が平安時代中期に成立していたなどとは,本当に日本の文化は奥深いと思います。愛に対する渇望,老若男女を問わずどうしても払拭できない嫉妬という感情,人生のはかなさ・無常観などなど,この紫式部という人物の観察力,洞察力,表現力は類い希だと思います。六条の御息所が生霊を放つ場面,情念といいますか,これには凄みがあります。

 

 この「あさきゆめみし」という漫画のタイトルは,「いろは歌」の一部から採用されているのですが,その「いろは歌」のことが今朝の産経新聞の「産経抄」に書かれていました。四十七文字で無常の世界を表現したのですね。これも日本人ならではの素晴らしい世界です。

 

 そういえば,日本文学に魅せられ,現在でもその研究に勤しんでおられる碩学ドナルド・キーンさんは,この2月11日に名古屋大学に講演でお越しになるそうです。私は行くことができませんが,何とかその講演録でも入手できたらなと思っております。

2011/12/13

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 源氏物語を最初に少し学んだのは,高校生の古文の授業の時でした。確か「若紫」の帖をやったことは覚えておりますが,学んだと言ってもほんの少しです。その後,大学生時代にはあんなに時間があったのに,食指が向きませんでした。私の浅はかな考えだったのかもしれませんが,主人公である光源氏に軽薄なプレイボーイのイメージが払拭できず,そんな世界には全く興味がないなと思っていたのです。大学生時代は,そんなものよりは三島由紀夫だと思っていたのです。

 

 でも年齢を重ねる,いや馬齢を重ねるにしたがって,だんだんと日本の古典文学の価値がどれくらい素晴らしいものなのか,日本人に生まれながらそれを知らないままに死ぬのはもったいない,口惜しいという気がしてきたのです。最近でも,「日本霊異記」や「雨月物語」などを読みましたが,やはり源氏物語の世界は知っておくべきでしょうね。

 

 知日家に限らず,外国人は源氏物語の存在を知る人が多いようです。外国語の翻訳も多いこともあり,源氏物語を読破した外国人も多く,源氏物語を研究対象にしている人も多いようです。源氏物語というのは一体全体どんな世界なのでしょうか。興味が湧いてきます。情念,嫉妬,諦観などの渦巻く世界なのでしょうかねぇ。

 

さて,問題は時間です。私だって世のため,人のために弁護士としての仕事に追われております。その現代語訳とはいえ,いきなり源氏物語の原典に当たるには勇気がいりますし,時間がありません。そこでふっと思い立ったのが,源氏物語の全ストーリーを網羅する分かりやすい漫画はないだろうかということでした。安易な方法で,邪道と言われるかもしれませんが,マンガから入ろうと思いました。

 

 そこで知ったのが,「あさきゆめみし」(大和和紀著)というマンガです。これでいきましょう,取り敢えず・・・。マンガから入って行くのです,源氏物語という深い森の中に。まずは,「あさきゆめみし」(大和和紀著)の完全版の第1巻から第3巻までを買っちゃいました(笑)。

 

 それにしても「あさきゆめみし」ですか,なかなかのタイトルですね。これは,いろは歌(いろはにほへと・・・)からきているようです。

 

「色は匂えど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔いもせず」

 

 花は咲いてもすぐに散ってしまう。そんなはかない世の中にずっと同じ姿で居続けるものなどありはしない。人生という険しく困難な山道を今日もまた越えていくのかな。はかない一時の夢なんかは見たくないものだ。酔ってもいないのに・・・。

 

 これがいろは歌の大意なのですか。古くから日本人の感性というものは素晴らしい。

2011/08/30

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 もう蝉の鳴き声も聞こえなくなりました。今年の夏を乗り切るのには苦労しましたが,いよいよ秋です。大変好きな季節です。

 

 それにしても最近,自分でも思うのですが,1つ1つのブログの文章が長過ぎはしまいか。あんまり長いと,全国6189万人のこのブログ愛好者も(笑),さすがに読む気が失せるのではないかと思い始めてきました。確かに,私は自分の仕事面でも裁判所に提出する準備書面はページ数が多めです。以前私が勤務していたボス弁護士も,口癖のように「お前の準備書面は長過ぎるわ。誰も読まんぞ,そんなの。」と言っておりました(笑)。でも私は,この点に関してはボスの真似はしようとは思いませんでした。だって,ボスの書面は短過ぎるんだもん(爆笑)。

 

 ああ,こうやって前置きなどをするから,1つ1つのブログの文章が長くなってしまうんですね。今日の本題は,日本霊異記のことです。今この本を楽しんでおります。年齢のせいか,それとも他に何か理由があるのかは知りませんが,最近では特に,この愛すべき日本の古い昔の文学に憧れるのです。

 

 日本霊異記というのは,正式名称は「日本国現報善悪霊異記」というもので,その成立年代はあの遠い昔,平安時代初期の822年ころと言われております。筆者は薬師寺の僧侶である景戒という人です。この本は一言で言えば仏教説話集です。基本的には因果応報を説き,良き結果を得たいと思えば良き因となる行為に務めよ,邪な心は禁物ですよ,というものです。でも,結構面白いんですよ。今は中巻の第32話まで進みましたが,当時の人々の生活,風俗の一部を覗くこともできますし,何よりも当時は聖武天皇を初めとして仏教を広めたいという強い気持ちがあり,そして実際に広まっていったのです。

 

 ①赤ちゃんが鷲にさらわれたのですが,悲嘆にくれていた父親が数年後に,本当に不思議なきっかけで,その子を育てていた家に偶然に宿泊して巡り会い,無事に引き取ることができた話とか,②以前に蛇に呑み込まれようとしていた蛙を助けたり,売られようとしていた蟹を買い取って放生してやった女性が,その後に屋根から侵入した蛇に迫られた際に,以前助けた蟹がその蛇を切って女性を助けた話とか,③その当時愛知県(名古屋市中区辺り)に住んでいた行いの正しい強力(力持ち)の女と,やはりその当時岐阜県(本巣町辺り)に住み,住民に迷惑をかけていた強力(力持ち)の女とが力比べをし,愛知県の方の女が勝ち,以後は迷惑をかけないように懲らしめた話とか,・・・なかなか面白いんですよね。それに,狐という名の由来(来つ寝)とかも分かります。

 

 私としては,今後も古典に対する憧れが続きそうです。

2011/05/09

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 私が井上井月の存在を初めて知ったのは,種田山頭火に関する著作を通じてでした。山頭火は生前,井月に私淑し,心から敬慕していたようで,落栗が座を定めたように井月が落ち着いた長野県伊那を二度にわたって訪れ,二度目でようやく井月の墓参りを果たしたということです。

 

 井月という漂泊の俳人は,正に知る人ぞ知る存在で,その俳句史上の位置づけは,中井三好氏の次の言葉で尽くされていると思います。「井月が越後の長岡藩校で学んだ漢学、京の貞門俳諧で学んだ国学、副詞『な』などの確かな『てにをは』の活用、さらに全国津々浦々で見聞したもの等の博覧強記が素養となって、漂泊のうちに宿ったものが芭蕉の寂びの俳諧理念と結びついて、井月の『かるみ』の風体が成就していったのである。・・・芭蕉俳諧の中興と云われた与謝蕪村が天明三年(一七八三)に没してから、明治の正岡子規が俳句の写生論を唱えるまでのおよそ百二十年間は、俳諧は堕落の一途をたどり、俳諧に人なしと云われているのであるが、俳諧の歴史の流れは蕪村と子規の間に、見事に井月という芭蕉の姿を追った立派な俳人を配していたのである。」(中井三好著,「井上井月研究」162~163頁,彩流社)。

 

 それにしても井月の句に接するにつけ,本当に素晴らしいと思います。またその人となりについては,「あの人に限って、いつも顔色を変えたことがない、あゝいふのを聖人といふのでせう」(加納五声の老未亡人)とも評されています。このような井月が愛した伊那の自然と句碑を是非訪ねてみたいと思い,私は「ソースカツ丼」をだしにしてカミさんと娘のあかねちゃんとを連れ出してこの連休中に小旅行をしたのです(笑)。

 

 ところで,山頭火の句は自由律であり,井月のそれは定型句です。また,自分の置かれた状況,境涯といいますか,それに対する心情を吐露した句を境涯句というならば,山頭火は境涯句が比較的多いのに比べ,井月の境涯句は数えるほどです。この両者のことに関連し,江宮隆之氏は次のように述べております。

 

 「だが、井月と山頭火はその人生、世への執着、すべてにおいて異なる。山頭火が憧れた井月が、もし同時代に山頭火を見ていたら、親しくしただろうか、の疑問は残る。山頭火は、自己に執着して生き、世の中を否定しようとして生きた。井月は、反対にあるがままを受け入れて、飄々と生きた。『千両、千両』の声に井月の伊那谷での人生のすべてが籠められている。井月は、野晒しを承知のうえで伊那谷を放浪した。」(江宮隆之著,「井上井月伝説」303~304頁,河出書房新社)。

 

 まあ,いろいろな評価があるかもしれませんが,山頭火の句も私の心にしみ入るものが多くありますし,井月という存在とその俳句を知ることができたのもこれまた幸せだったと思います。

2011/05/06

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 5月3日はカミさんと娘のあかねちゃんと3人で,長野県の伊那方面へ日帰り旅行に行ってきました。なぜ伊那方面なのかというと,そこは漂泊の俳人井上井月の最終的な安住の地であり,そのお墓や句碑がたくさんあるからです。井月は「せいげつ」と読みます。その当時井月が見たであろう山々や自然を自分の目でも確かめたかったのです。それと伊那の名物,ソースカツ丼もお目当てでした(笑)。

 

 中央道の伊那ICを降りる頃にはもう既にお昼近くになっておりましたから,衆議一決,まずは腹ごしらえということになりました(笑)。お目当てのお店はお客さんがいっぱいでしたのでそこをあきらめ,少しさまよってから何となく良さげなお店に入りました。私とカミさんは当然にソースカツ丼を注文し,娘のあかねちゃんは熟慮に熟慮を重ね,迷いに迷った末に,これまた地元の名物料理であるソースローメンを注文しました(少し太い麺の焼きそばのようなもの)。いずれも注文の食事に満足し,次に井上井月の句碑めぐりをしました。

 

 まずは,井上井月のお墓参り。ただ本当のお墓は塩原本家の敷地内にあるそうで,私たちがお参りしたのは卵形の割と小さな自然石のものでした。この石は,井月没後10年の明治30年に,塩原折治(俳号梅関)が三峰川から拾ってきた卵形の赤御影の自然石に「降るとまで 人には見せて 花曇」(井月の代表的な名句の一つ)を刻み,塩原家の墓地内に供養句碑として設置したものです。やがてこの句碑は昭和年代に入って刻んだ文字が風化して消えてしまったのですが,人々は今でもこれを井月の墓としてお参りに来ます。種田山頭火もこれを井月のお墓として参ったそうです。私たちもお参りしました。

 

 次に向かったのは,六道原です。ここにも句碑があるのです。しかし私たちはこの句碑をなかなか見つけられずにいたところ,カミさんが目ざとく「あれじゃないかな?」と見つけてくれました。そこには,井月の句碑と,その横に彼に私淑し,敬慕していた種田山頭火の句碑が並んでいました。刻まれていた井月の句は「出来揃ふ 田畑の色や 秋の月」で,山頭火の句は「なるほど 信濃の月が 出てゐる」でした。私たちがこれらの句碑を眺め,次の場所に移動しようとして車に乗り込みましたら,これらの句碑のすぐ近くに住む一人の品のよいご老人が私に話しかけてくれたのです。私はその方と井月について少しの間立ち話をしました。この方は,遠路はるばる井月が漂泊した伊那,そしてその句碑などを訪ねて来た私たちのような存在が嬉しいご様子でした。よくよく話を伺ってみると,この方は,何と,何と,井上井月顕彰会の会長をしておられる堀内功さんだったのです。光栄なことです。話がはずんでしまいました(笑)。

 

 そしてそこを辞去した後,堀内会長から道順を教えて貰った六道堤の井月の見事な句碑に向かったのです。大きな池の周りの堤にあるその句碑の句は,あの有名な「何処やらに 寉の声聞く 霞かな」でした。感無量です。そして桜の頃は本当に美しい景色でしょう。井月が数十年にわたる全国的な漂泊の旅の後,この伊那を最終的な安住の地に定めた気持ちの一端に触れたような気がしました。

 

 「落栗の 座を定めるや 窪溜まり」

2011/04/20

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 私の朝の徒歩通勤の経路(その日その日の気分で適当に変えます)には,いくつか見事な桜を堪能できる場所があります。でも,もうどの場所の桜も葉桜になってしまいました。あれだけ美しかった桜の姿がもうないのですから,少し寂しい気がします。仕方ありませんね。桜というのはその固有の美しさに加えて,自然の呼び声に応じていつでもこの世を去る覚悟,散り際の潔さもその魅力の一つなんですから。

 

 桜前線は少しずつ北へ向かっておりますから,不幸にして被災された方々を少しでも癒し,勇気を与えてくれる桜の姿も少しずつ北上していくことでしょう。ニュースによれば,福島市内の避難所に身を寄せている被災者の方々も,桜の名所である同市内の花見山公園を訪れ,その見事な桜の姿を見て「来てよかった。」と心を和ませたということです。

 

 さて,人間はいつか必ずこの世を去る訳です。もちろん私もいつか必ず死を迎えるのですが,季節としてはいつになるか。できれば私も西行法師が詠んだように,どうせ死ぬなら春の桜の季節がいいかなと思います。

 

「ねがはくは 花のもとにて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃」 西行

 

 西行法師は旧暦2月16日に亡くなったということです。新暦ならばさしずめ3月29日辺りでしょうか。正に桜の季節です。また,今私がその俳句や生き様に興味をもっている漂泊の俳人井上井月も,西行法師や松尾芭蕉を敬愛,敬慕していたようですが,西行忌(旧暦2月16日)を迎えるにあたり,次のような俳句を作っております。

 

「今日ばかり 花も時雨よ 西行忌」 井月

 

 西行が望んで止まなかった桜の花がしぐれるほどに降れ。井月は天にそう命じているのでしょう(「井上井月伝説」197頁,江宮隆之著,河出書房新社)。そして本当に不思議というか,偶然なんでしょうが,井上井月の命日も西行と同じ旧暦2月16日なのです。

2011/03/23

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 「落栗の 座を定めるや 窪溜まり」

 

 井上井月という江戸末期の俳人については,これまでこのブログでも二度ほど取り上げたことがあります。何しろあの種田山頭火が心から敬愛し,慕っていた俳人ですから。

 

 この井上井月という俳人は,何となく私も好きなのです。井月の出自については定かでないことが多いのですが,有力な説によると,この人は長岡藩士であり,武術に優れていたし,何しろ学問もでき,高い教養を有していたとのことです。そして,彼は愛する妻や娘を故郷(長岡)に置いて江戸で仕事に励んでいた訳ですが,1844年(弘化元年)の上越大地震で,不幸にも,妻,娘,養父母を亡くしてしまいました。どれほどの精神的打撃だったでしょうか。大切な人の死に直面し,それがきっかけで行雲流水の生活に身を置く人は少なくありません。彼も敬愛する松尾芭蕉のような句を求めて漂泊の旅に出てしまいます。

 

 結局,井月は,信州の伊那谷に行き着き,そこで約30年以上も漂泊し,高く評価され味わい深い句を作り続けたのです。冒頭の句などは,枝から落ちた栗がころころころがって,ようやく窪みの所でおさまり,漂泊の旅の末に終の場所として伊那谷に落ち着いた,安堵の心境を反映しているかのようです。

 

 地震で死んでしまった愛する娘が,彼が与えた土雛を握ったままであったことを知って,彼は慟哭したそうです。

 

「遣(や)るあてもなき 雛買ひぬ 二日月」

 

 山頭火がいかに井月を慕っていたのかは,彼が西国から遠路はるばる伊那谷にある井月の墓を二度にわたって訪れたことからも分かります。このうちの一度は近くまで来たのに病気で墓参りは断念しています。山頭火がようやく二度目で念願の井月の墓参りができた時に詠んだ句の一つは,

 

「お墓撫でさすりつつ、はるばるまゐりました」

 

 また,井月の辞世の句として伝えられているのは,

 

「何処やらに 鶴の声聞く 霞かな」(絶筆)

 

 少し時間ができたら,井月に関する本でも読んでみたいと思っています。何かしら興味があるのです。手始めに,「井上井月伝説」(江宮隆之著,河出書房新社)からにしようか。

2011/03/07

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 ゆっくり徒歩で通勤していると,さすがに肌に感じる風が春めいてきたことに気づく。事務所までの経路のうち,シーズンになればそれはそれは見事な桜を咲かせる木々の集まった場所があるが,その枝々は何となくではあるがふっくらしてきたように見えるし,今にも蕾を出しそうな風情でもある。

 

 雲水,漂泊の俳人種田山頭火が作った次の句は,おそらく今頃の季節の作であろう。

 

「ゆらいで梢もふくらんできたやうな」

 

 きのう,3月6日は山頭火のお母さんの命日だそうだ。昭和13年3月6日,山頭火はそのお母さんの47回忌に次のような句を作っている。

 

「うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする」

 

 山頭火の母は不幸にも自宅の深井戸に身を投げて自殺し,この時山頭火は満9歳と4か月の幼少であった。それ以来,母を思慕して歩む人生で,現世にあっての遊蕩も,世を捨てての放浪行乞も,その根っこのところでは母の自殺が因を成しているとの指摘もある(「山頭火名句鑑賞」234頁,村上護著,春陽堂)。

 

 山頭火が春に作ったと思われる境涯俳句風のものに,次のようなものがある。

 

「かうして生きてはゐる木の芽や草の芽や」

 

 そして,やはり彼が春に作ったと思われる少し楽しげな句は,

 

「何が何やらみんな咲いてゐる」

2011/03/01

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 自分の読書傾向はかなり偏っているとは思うが,それでもいつも心の中には日本の古典への憧れがある。万葉集,梁塵秘抄,方丈記,平家物語,徒然草などなど。方丈記や徒然草などはボリューム的に手頃だったので既に味わったが,いずれ万葉集や梁塵秘抄,平家物語などはじっくりと読んでみたいと思っている。

 

 日本の古典の中で,これまで漠然とではあるが一度読んでみたいと思い続けていたものに上田秋成の「雨月物語」があった。何でこの作品に興味を抱き続けてきたのかは分からないが,雨も好きだし,月も好きだし,タイトルが何ともしっとりとしていて日本的だし,江戸期の怪異文学の傑作という触れ込みに惹かれ,怖いもの見たさというのもあったかもしれない。そんな訳で,このたび,ちくま学芸文庫の「訳注日本の古典」シリーズ中に高田衛・稲田篤信校注の良い本を書店で見つけたので,読んでみた。

 

 上田秋成の雨月物語は次のような構成になっており,全部で九つの怪異談の集まりである。

巻之一 「白峰」 「菊花の約」
巻之二 「浅茅が宿」 「夢応の鯉魚」
巻之三 「仏法僧」 「吉備津の釜」
巻之四 「蛇性の婬」
巻之五 「青頭巾」 「貧福論」

 

 「白峰」における崇徳上皇と西行の行き詰まるやり取り,「菊花の約」における赤穴宗右衛門の至誠と霊の不可思議,「夢応の鯉魚」における鯉の遊泳の際の美しすぎるほどの描写(三島由紀夫も絶賛),「仏法僧」や「蛇性の婬」における人性,獣性の情念の凄絶さ・・・。

 

 怪異文学としては非常に完成度が高いし,改めて日本の古典の素晴らしさを認識させてくれる。雨月物語における「雨」と「月」の言葉の意味については学者の間で深い分析がなされているが,雨月物語の序の部分で作者の上田秋成が書いているのは,「雨が上がって晴れ,おぼろ月夜の晩にこれを書き上げたから『雨月物語』と名付けた」とのこと。ほんと,風情があっていいねえ(笑)。

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