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弁護士ブログ

2014/01/09

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 私の事務所はカレンダーどおり1月6日から始業しておりますが,どうも右眼の充血と眼球の痛みがあったため,翌7日にはやむなく眼科に行きました。実は数年に一度,こういう症状が出るのです。大体は目の酷使,疲れ,免疫力の低下という三要素が重なった場合にこうなってしまいます。診察の結果,強膜炎,虹彩炎ということで,前にも処方してもらったようにリンデロンとクラビットという2つの点眼薬をいただきました。このブログを書いている今は,おかげさまで右眼の充血も少し和らぎ,眼球の痛みもほとんどなくなりました。

 

 目の酷使といいましたが,年末年始は少し本を読みすぎたようです。目を酷使したとは言っても,読んで全く後悔しなかったどころか,ものすごく感動してしまったのが「帝国陸軍 見果てぬ『防共回廊』-機密公電が明かす、戦前日本のユーラシア戦略」(関岡英之著,祥伝社)という本です。私はこの関岡英之というノンフィクション作家は以前から注目しており,これまでにも「拒否できない日本-アメリカの日本改造が進んでいる」(文春新書)など数冊の本や論考を読んだことがありましたが,誠に素晴らしく,信頼できる作家です。

 

 関岡英之さんの書籍を読んでこれまでに私が感じた点を挙げますと,次の三点になります。まず第一点は,何よりも視点の鋭さです。例えば「拒否できない日本-アメリカの日本改造が進んでいる」(文春新書)では,アメリカが毎年突きつける年次改革要望書,そして日米構造協議などがいかにアメリカの国益に沿ったものであり,これに日本が唯々諾々として従い,いわゆる小泉構造改革もその一環であって,結局はアメリカのポチとなって行われたものだという実態を鋭くえぐり出しております。今回私が読んで感動した「帝国陸軍 見果てぬ『防共回廊』-機密公電が明かす、戦前日本のユーラシア戦略」(関岡英之著,祥伝社)という本も,後にこの本の「あとがき」の一部引用部分に記載されているような鋭い視点からの力作です。

 

 第二点は,関岡英之さんの愛国心の強さです。その著作からも,日本人としてこの日本という国を心から愛しているという心情が窺えるのです。

 

 第三点は,日本語が極めて正確で文章力の素晴らしさという点です。このような文章を書くことができるのは,天性の資質だけでなく,労を厭わず浩瀚な著作,資料を渉猟してこられたからだと推察されます(関岡さんも随分目を酷使されてきたのではないかと心配です【笑】)。

 

 さて,「帝国陸軍 見果てぬ『防共回廊』-機密公電が明かす、戦前日本のユーラシア戦略」(関岡英之著,祥伝社)という本の素晴らしさについては,私が拙い書評めいたことを書くよりも,この本の「あとがき」の一部を次に引用した方が良いと思います。

 

「私が関心を抱いて止まない戦前の大アジア主義は、昨今の媚中派や東アジア共同体推進論者の言説の類とはまったく異なる。ましてや日中同盟論などでは断じてない。空疎な理想論でもなければ、高踏な思弁でもない。冷徹な戦略論とその実践である。戦後、私たちはそのすべてを忘却させられた。本書の主題である「防共回廊」構想も、内蒙工作の部分を除けば、防衛庁防衛研修所の戦史にさえ記録されていない。なぜならそれは連合国、とりわけ中国やソ連などの最大のアキレス腱を直撃する、あまりにも本質を突いた戦略だったからだ。冷戦に直面した米国は遅まきながら、戦前日本が孤軍奮闘しつつ取り組んだ防共の意義を思い知り、密かに自家薬籠中の物とした。防共回廊がもし実現していれば、中華人民共和国と朝鮮民主主義人民共和国の成立も、朝鮮戦争もベトナム戦争もなかったであろう。なんという多くの人命が失われずに済んだことか。歴史に「もし」は無意味と言われるが、この問いかけはあまりにも重い。叩くべき相手を間違えた米国が、そのために喪失した尊い命と国帑ははかりしれない。」(同書311~312頁)

 

 あのダグラス・マッカーサー(元連合国軍最高司令官)も,引退後の1951年5月3日の上院軍事外交共同委員会において,あの戦争は日本にとっては安全保障上の必要に迫られたものであったと証言しております。また,当時,実際にはコミンテルンのスパイがアメリカにも,日本にも,そして蒋介石国民党軍にも多数入り込んでいて謀略の限りを尽くしていたということが今日では明らかになってもおります。アメリカは戦う相手を本当に間違えてしまったというべきで,本当の敵はコミンテルンだったのだと思います。

2013/11/26

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 先週末の土曜日,日曜日は本当に良い天気でした。農業には二毛作というものがありますが,洗濯物干しの「二毛作」でもやりたいような,とても良い天気だったのです。それにしても中国は,またまた本当に愚かにも,勝手に「防空識別圏」を設定し,およそ国際的には支持を得られない威嚇的,膨張的的な行動を懲りずに繰り返しております。自国の民を幸せに出来ないような政権に正統性(レジテマシー)はなく,そんなヒマがあるのなら例えばPM2.5を何とかしろと言いたい。10~20メートル先の見通しもできないような地獄のような大気汚染,劣悪な住環境・・・。この土曜日,日曜日の素晴らしい日本の空を見て,つくづく日本人に生まれて良かったなと思いました。

 

 月曜日の夕方から晩にかけては,名古屋は一時期雨風が強い天候でしたね。もうコートを着ている人も多くなりました。先日タクシーの運転手さんが「だんだん秋が短くなっていますね。」と言っていましたが,同感です。私は秋という季節が一年中で一番好きなのに,夏の暑さが長引き,そうこうしているうちに体感としては途端に寒くなるという感じです。大切な秋が省略されつつあります。

 

 秋に引き続く冬も,私は嫌いではありません。でも寒風に吹かれて歩いていると,何故か種田山頭火の「うしろすがたのしぐれてゆくか」という秀句を思い出してしまうのです。種田山頭火も,そして古くは空也上人も,行乞,乞食(こつじき)の旅を続けていた人にとっては冬という季節は本当に辛かっただろうなと思います。

 

 時雨(しぐれ)というのは,主に秋から冬にかけて起こる,一時的に降ったり止んだりする雨や雪をいい,時雨が降る天候のことを称して,時雨が動詞化して時雨れると言うようです。時雨は冬の季語ですが,これについては,残念ながら今年の6月に鬼籍に入られた村上護さんは次のように述べておられます。

 

 「なんといっても時雨で有名なのは『後選集』にある「神無月ふりみふらずみ定めなき時雨ぞ冬のはじめなりける」という歌だろう。これにより時雨は初冬の景物として俳句の季語に定着していく過程もあった。同時に時雨を「ふりみふらずみ定めなき」と表現したことから、人生の定めなさ、はかなさを象徴する意にも転じ、「しぐれる」の動詞形としても使われている」(「山頭火名句鑑賞」村上護著,春陽堂61頁)

 

 山頭火の「うしろすがたのしぐれてゆくか」という句は,その標題に「自嘲」とありますように,降る雪(この句の場合は雨より雪かと思います)の中を自分の托鉢僧としての後ろ姿が次第に遠ざかっていく情景を自嘲気味に表現しています。また,彼ら漂泊の行乞者にとって冬の季節がいかに辛かったか,また,いかに内省的に自分の境涯に思い至る外的環境だったかを窺わせる句として,次のような山頭火の句もあります。

 

 「しぐるるや 人のなさけに 涙ぐむ」

 「しぐるるや 死なないでゐる」

2013/07/02

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 種田山頭火などの俳人の評伝などで労作の多い,そしてとてもよい仕事をされていた村上護さんが3日前に亡くなりましたね。まだ71歳であり,これからももっともっと深く掘り下げた内容の著作を期待していただけに,とても残念です。心からご冥福をお祈りいたします。

 

 思えば,村上護さんの「種田山頭火 うしろすがたのしぐれてゆくか」(ミネルヴァ書房)は,今でも山頭火の評伝としては最高だと思いますし,「山頭火名句鑑賞」(春陽堂書店)も労作で,私はこの二冊で山頭火の生涯やその句作についての理解を深めることができました。それにしても,「井上井月研究」(中井三好著,彩流社)などといった著作に触れるにつけ,著者の思い入れと取材力,研究心に裏打ちされたものは素晴らしいですね。決して多作でなくても,満を持してこのような本を世に出すのが良いのです。

 

 山頭火と並んで,私は尾崎放哉という俳人と作品にもとても興味があります。亡くなった村上護さんには尾崎放哉に関する評伝は一冊ありますが,山頭火に関してのように,放哉に関してもさらにさらに深く分け入った内容の評伝を書いて欲しかったのです。

 

 両者は非定型自由律俳句の俳人ですが,その生き方については,山頭火と放哉には共通点もあるけど,他方にない対照的な面もあると思います。ただ,お酒に関しては両者は完全に共通でしたね(笑)。両者の師匠格にあたる荻原井泉水は,昭和5年の井泉水九州旅行記の中の「塘下の宿」の箇所で,次のように記しております。

 

「かつて放哉が南郷庵に出立するとき彼に酒を禁ずるように忠告した。だが、彼亡き跡にして考えると私は放哉の気持ちを察しない頑なな言葉だったと思ふ。だから山頭火にはほろほろと酔わせたいものだ。」

 

 山頭火も放哉も雲水の生活でしたが,このうち放哉は寺男をしながら,南郷庵というのは彼の終焉の場所です。看取ったのは近所の主婦ただ一人だったといいます。放哉は山頭火よりも3歳年下でしたが,彼より14年もはやく鬼籍に入りました。両者は互いに心を通わせていたようで,同じような境涯句もあります。そしてさらに両者に決定的に共通だったのは,さきほども述べましたが,酒です(笑)。

2013/01/18

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 東京電力福島第一原子力発電所の現況については,原子炉と原子炉格納容器は現在も淡水が注入されていて,温度も圧力も良好,また,使用済み燃料プールも循環冷却が運転中でその温度も良好です。今でこそ,本当に今でこそ,原子炉等そのものは落ち着いておりますが,津浪直後に電源喪失という恐るべき事態が生じ,未曾有の原発事故が発生しようとする危機的な状況が実際にあった訳です。そのような極限状態で,吉田昌郎元所長以下,「決死隊」が事実上結成され,東電社員,自衛隊員,消防隊員,協力会社社員らが必死に奮闘努力した事実が忘れ去られようとしています。

 

 「死の淵を見た男-吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」(門田隆将著,PHP)というノンフィクション物には感動しました。3,4回は嗚咽するように泣けてくる箇所がありました。

 

 「もう駄目かと何度も思いました。私たちの置かれた状況は、飛行機のコックピットで、計器もすべて見えなくなり、油圧も何もかも失った中で機体を着陸させようとしているようなものでした。現場で命を賭けて頑張った部下たちに、ただ頭が下がります。」(吉田昌郎元所長の発言)

 

 また,この本の「まえがき」には,「全電源喪失、注水不能、放射線量増加、そして水素爆発・・・あの時、刻々と伝えられた情報は、あまりに絶望的なものだった。冷却機能を失い、原子炉がまさに暴れ狂おうとする中、これに対処するために多くの人間が現場に踏みとどまった。そこには、消防ポンプによる水の注入をおこない、そして、放射能汚染された原子炉建屋に何度も突入し、〝手動〟で弁を開けようとした人たちがいた。・・・・・本書は、吉田昌郎という男のもと、最後まであきらめることなく、使命感と郷土愛に貫かれて壮絶な闘いを展開した人たちの物語である。」という著者の言葉が記されているように,この本は正にそういった状況を克明に記したノンフィクションなのです。よい本でした。感動しました。

 

 彼らはまさに「死の淵」に立たされていた訳ですが,その使命感や郷土愛の強さ,勇敢さは,そこに「武士」の姿を見るようです。

 

  また,吉田昌郎元所長の当時のクラスメートの証言では,吉田元所長はその高校時代から「般若心経」を諳んじていて,その頃から宗教的な面に強い関心があり,素養があったということです。あのような極限状況にあってもへこたれず,沈着冷静に,時には熱くなりながら指揮を完遂できたということは,そのあたりにも背景があったのでしょうね。

 

 この本の著者は夥しい数の関係者からの取材を行い,「生の証言」に基づいて著作しております。だからノンフィクションなのです。私も以前は,純文学や小説もよく読んではおりましたが,最近では史実や取材に基づくノンフィクションの方を好む傾向にあります。その方が感動が得られるのです。

 

 ただ先日,ゴルフでご一緒させていただいた私より年上と思われるご婦人が,クラブハウスでの昼食の際に,「藤沢周平が亡くなったときは本当に泣いた。」と仰っていたのを思い出しました。確かに歴史物の小説もたまには読みたくなりますね。特に,藤沢周平や山本周五郎のそれは,「日本人」を感じさせる何かがありますからね。

2013/01/11

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 芥川龍之介が俳人井上井月を高く評価していたことはあまり知られていないかもしれません。それもそのはず,俳人井上井月という存在自体がそれほど知られてはいませんからね。このブログには井月はたびたび登場するのですが,本日も私が敬愛する俳人井上井月の話です。

 

 最近ですが,「井月句集」(復本一郎編,岩波文庫)という本が出ました。大変素晴らしい本だと思います。井月の句が全部で1297句紹介され,春の部,夏の部,秋の部,冬の部,新年の部に分かれております。それに,井月本人が書いた「俳諧雅俗伝」という俳論文,井月といえば彼を世に紹介した下島勲さんによる略伝や評伝,編者による解説などが満載されております。

 

 この「井月句集」という本の表紙カバーには「・・・所謂『月並俳句』の時代とされる俳諧の沈滞期にあって,ひとり芭蕉の道を歩いた越格孤高の俳人である。・・」との記載があります。「越格(おっかく)孤高」とはどういう意味なのでしょうか。孤高という言葉の意味はよいとして,「越格(おっかく)」とはどういう意味なのか・・・。辞書で調べてもあまりよく分かりませんが,「越格」という言葉の使われ方を見ていると,要するに,抜群,群を抜いて優れているという意味だと思われます。本当にそのとおり。乞食になることを「菰を被る(こもをかぶる)」といい,俳人井上井月は全国を漂泊し,最後の伊那谷でも乞食同然の生活をしておりましたが,井月は単なる菰被りではなく,とてつもなく高い教養と深い知識を備えた人です。古今和歌集,平家物語,松尾芭蕉の作品などの我が国の古典,三国志演義や漢詩など中国の古典に精通していなければとてもあのような素晴らしい句作はなし得なかったでしょう。

 

 大正10年には下島勲が編者となった「井月の句集」が発刊されております。その句集には芥川龍之介が跋文を書いているのですが,その一部を以下に引用してみましょう(「井月句集」334頁,復本一郎編,岩波文庫)。芥川が井月をいかに高く評価していたかが分かるでしょう。

 

 「このせち辛い近世にも、かう云ふ人物があつたと云ふ事は、我々下根の凡夫の心を勇猛ならしむる力がある。編者は井月の句と共に、井月を伝して謬らなかつた。私が最後に感謝したいのは、この一事に存するのである。」

2012/07/19

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    炎天をいただいて 乞ひ歩く      山頭火

 

 梅雨が明けました。しかし,初老の我が身にはとても辛い炎天が頭上に広がっております。ちょっと厳しい季節ですね。思えば,漂泊の俳人,種田山頭火が行乞の旅に出るようになったのは彼が40歳を少し過ぎてからでした。炎天下での行乞は並大抵の覚悟ではできなかったでしょう。

 

 その日の晩,ちゃんと木賃宿で宿泊できるかどうかはその日のもらい(喜捨)の量によります。宿泊できるだけのもらい(喜捨)がなければ,蚊に悩まされながらの野宿になります。炎天下で一歩,一歩,歩を進める山頭火は何を思いながら行乞を続けていたのでしょうか。

 

   へうへうとして 水を味はう            山頭火

 

 これも私の好きな句です。これは昭和8年10月の句ですから,さすがに炎天下ではないのでしょうが,行乞の旅の途上で味わう水は,さぞ美味しかったでしょう。

 

   飲みたい水が 音たててゐた      山頭火

 

 これは正に梅雨明けの炎天の頃の作句でしょう。山頭火の行乞の姿や美味い水を味わう様子が浮かんできます。炎天下での辛いと思われる行乞の旅の途上でも,それなりの覚悟を決めた山頭火の精神的余裕を感じさせる次の句も私は好きなのです。私も何とか頑張らねばなりません。

 

   日ざかりの お地蔵様の顔がにこにこ

2012/07/11

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 「毛沢東 大躍進秘録」(楊継縄著,伊藤正・田口佐紀子・多田麻美訳,文藝春秋)という本を読み終えました。ちょっと時間がかかりましたけどね。だって568ページのボリュームですし,何しろ各ページが2段組になっていますから,1000ページ以上読んでしまった感があります。でも内容が大変濃く,この本の序章の第三項の見出しにあるとおり,毛沢東が指導・実行した「大躍進」なるものは,人類史上最悪の惨劇だったことは間違いありません。

 

 中国共産党の毛沢東は,経済面でアメリカやイギリスを追い越そうとして,1957年から前例のない実験に着手しました。「公共食堂」なるものを作って家庭での食事を否定し,生産だけでなく消費や生活に至る全ての面で「公有化」を目指し,この政策が「大躍進」と呼ばれました。毛沢東は「共産主義下で家庭は消滅する」と嘯き,これを推進しようとしたのです。その結果,農民を中心として推定でも約3600万人もの人々が餓死しました。約3600万人です・・・。壮大な失敗だったのです。この本は,「大躍進」の被害者であるこれらの餓死者に対する「墓標」としての意味があります。

 

 この本には「大躍進」の問題点や当時の実態が,中国共産党がひた隠しにする資料に基づいて詳細に記述され,中国国内では発禁となっています。「大躍進」の問題点や当時の実態として指摘されたのは主として次のような点です(読後,思いついたまま書いてみます)。

・毛沢東やこれに迎合する取り巻きの幹部連中が,どだい無理な生産目標を設定する。

・各省や地方政府の上層部は,やはり政権中枢に迎合する形で,しかも他の地域と競争する形でこれまた到底無理な生産目標を設定する。
・農民は本来の農業生産だけでなく,途方もなく大規模な利水事業等の労役にかり出され,また粗末な炉を作って使い物にならない鉄の生産まで余儀なくされ(当然その材料として各戸にあったなけなしの鍋,釜などの金属類を供出させられ),疲弊します。

・また生産現場では「密植」なるとんでもない指導などがなされ,各地方では農業生産量が減少しますが,各地方政府幹部は処分を恐れ,あるいは自己の評価を上げようとして,実際の生産高とはほど遠い過大な生産があった旨の虚偽の報告をします。実際にはありもしない生産高を他と競って虚偽の報告をすることを「衛星を打ち上げる」と表現されていました。
・共産党中央は,各地方から上がってくる虚偽,過大な報告を真に受け,各地方に対して,これを前提とした過大な農産物買い上げノルマを課してしまいます。しかし実際の生産量は虚偽の報告を大きく下回っていますから,買い上げようにも物理的に無理なのです。でも地方幹部らは,自己保身からノルマの達成を目指して,農民に対してなけなしの生産物を供出するように苛烈な要求をし,これを拒む者は「反革命分子」などとして批判闘争にかけられ,殴る蹴るなどの暴行や拷問を受け,数え切れないほどの数の農民らが殺されました。
・党中央への報告とは異なり,実際には農業生産量が低い訳ですから,「公共食堂」における食料供給が次第にできなくなり,機能停止,解散となって餓死者が続出します。親が一人ずつ子供を殺してその人肉を食べたり,土中に埋められた死体を掘り起こしてその肉を食べるなどの凄惨な事態があちこちで発生します。
・このような餓死者続出の情報は少しずつ党中央にも伝わり,「大躍進」政策の調整が検討されますが,結局は「廬山会議」で正論を主張した彭徳懐らが粛清されてしまい,基本的にはこの政策の維持が決定され,毛沢東自身,餓死者の続出という事実を認めようとはしませんでした。
・もともとの政策の誤りがあったのですから,その後も餓死者は続出し,1960年の春から秋にかけてがそのピークでした。この本の第十章の見出しどおり「毛沢東への忠誠度と餓死者の数は比例する」状況でした。ようやく1962年の「七千人大会」で劉少奇が勇気をもって毛沢東に諫言するなどして,「大躍進」は徐々に収束しますが,毛沢東は劉少奇に恨みをもち,彼を「実権派(走資派)」などと呼んで追い落としの機会を待ち,最終的にはあの凄惨な「文化大革命」の発動によって劉少奇を粛清するのです。

 

 最後に,訳者である伊藤正氏の巻末の解説を引用しておきます。

 

「楊氏は本書執筆のため、新華社記者の特権を使い、全国一七省の内部資料や関係者の証言を入手した。その結果、驚くべき悲劇の実態が明らかになった。一九五八年から五年間の餓死者は推計三六○○万人に上り、その大半が農民だった。都市や工業建設の資金を確保するため、食糧供出の過大なノルマを農民に課した結果だった。本書では、他人の死体を掘り起こしたり、子どもを殺したりして飢えをしのぐ地獄図さえ描く。その一方で、幹部たちが宴を張り、贅沢の限りをつくしていたことも明らかにされている。こうした悲劇が起こった究極の原因について楊氏は毛沢東を絶対的権力者とした極権制度に求め、少数の権力者が労少なく最大の果実を享受する不公平な体制は現代に引き継がれているものの、市場経済の発展により、民主主義制に変わる日は近いと予測している。」

2012/06/12

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 お仕事で大変忙しいのではありますが(笑),そんな中でも読みたい本はいっぱいありましてね。このたび,「日米衝突の根源 1858・・1908」(渡辺惣樹著,草思社)という本を読了しました。いやー,これは労作ですよ。内外の多くの文献,特にアメリカの文献を渉猟,分析した上での著作です。第二次世界大戦のうち,いわゆる太平洋戦争に至るまでの背景事情がすごくよく分かります。

 

 「遅れてきた帝国主義」の日本は,戦前の軍部が暴走し,日本国民も思い上がった末にあのような悲惨な戦争を引き起こしたという史観,東京裁判史観(日本悪玉論)にどっぷり浸かったままの人がまだ極めて多いと思われるのですが,もうそろそろ覚醒すべきです。当時の日本を取り巻く外部の情勢がどうなっていたのかという,そういった観点からの考察も当然に必要でしょう。しかもそれは戦勝国からの押しつけの史観でもいけません。この本は,1858年の日米修好通商条約締結後から1908年の「白い艦隊」来航までの半世紀を,主にアメリカに照準をあてて詳論した文献ですが,これを読みますと,結局はアメリカという国も「遅れてきた帝国主義」の実行者であり,この国も,米西戦争,ハワイ併合,フィリピン領有など,北太平洋を「アメリカの湖」にしようと着々と進んでいたことが明らかです。最終的には日本との一戦も辞さないという方向に進んでいたのです。

 

 そのあたりは,この本の「あとがき」で筆者(渡辺惣樹氏)は次のように述べており,大変参考になります。

 

「私はアメリカの為政者は、ハワイ併合とフィリピン領有で、日本との衝突が必ずあることを早い段階で覚悟していたのではなかろうかと推測しています。そう考えると、セオドア・ルーズベルトが展開した対日外交の本質が鮮明に見えてくる気がするのです。アメリカの軍事力が優位になるまでは何としてでも日本との和平を維持する。そして必ずや訪れるであろう日本との激突に備えて軍事力を着実に強化する。開戦となれば必勝を期す。ルーズベルト以降の大統領もそうした外交方針をとったと考えると、1909年以降に起こる多くの事件に合点がいくのです。あの戦争はアメリカにとってはあくまでも北太平洋の覇権を狙う『太平洋戦争』だったのです。」

 

 結局,アメリカはその計画(オレンジ・プラン)を,くしくもセオドア・ルーズベルトの従弟であるフランクリン・ルーズベルトの時代に実行に移したのです。

 

 是非お勧めなのは,この本に加えて,「真珠湾の真実-ルーズベルト欺瞞の日々」(ロバート・B・スティネット著,妹尾作太男訳,文藝春秋)を読まれることです。正に目から鱗というやつを体験できます。

2012/04/17

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 昼食に限ってはメロンパンが主食になってしまっている状況は,現在でも続いております(笑)。乳酸菌が入ってそうな飲むヨーグルトと一緒に,美味しいメロンパンを昼食にいただくのです。私はこの状況に,現在でも飽きておりませんし,倦んでもおりません(笑)。

 

 「革新幻想の戦後史」(竹内洋著,中央公論新社)という本を読みました。労作だと思います。いずれもう一度読み返したい本です。丸山眞男,清水幾太郎,宗像誠也,小田実などの,いわゆる知識人や進歩的文化人と言われている人達が戦後日本の思想界や諸運動にどのような役割を果たしてきたのかについては,自分でもよく分からないまま推移してきたのですが,この本を読んで少し整理ができたような気がします。この本のタイトルにもなっているように,共産主義とか革新とか平和主義とかといっても,彼らの知的営為も所詮は「幻想」の世界でのことでした。知の巨人と言われていた丸山眞男の「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」という言葉がそのことを如実に示しています。

 

 それにしても,戦後の左翼的な思想潮流の中で,福田恆存,三島由紀夫,江藤淳などといった方々は批判を恐れずに堂々と自分の思うところに従って論陣をはり,本当に勇気のある,国を憂う人だったと痛感します。

 

 最近本当にイヤだなと思うのは,最近のマスゴミ,いやマスコミが頻繁に登用するコメンテーターや知識人,文化人といわれる人々とそのコメントです。辟易としております。日曜日の朝の,さる局の番組やその他の軽薄なワイドショーなどに出てくる人々のコメントに接するにつけ,いかにも俗耳に入りやすい,世間受けするような無責任なコメントばかりに終始しております。福田恆存は,「文化人」を次のように定義しておりました(前掲文献305頁)。

 

 「意見をきかれる資格ありと見なされてゐる人種であり、また当の本人もいつのまにか何事につけてもつねに意見を用意してゐて、問はれるままに、ときには問はれぬうちに、うかうかといい気になつてそれを口にする人種」

 

 言い得て妙であります(笑)。

2012/04/06

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 実は来週の火曜日に,ある集まりで種田山頭火のことについてお話しする機会があります。お話しと言ったって,俳句はずぶの素人ですから別に大したお話しはできません。ただ少しは準備をする必要がありますから,以前読んだことのある「種田山頭火-うしろすがたのしぐれてゆくか」(村上護著,ミネルヴァ書房)をもう一度読み返してみました。この本で改めて知ったのは,やはり自由律非定型句の,これまた漂泊の俳人,尾崎放哉の命日は4月7日,明日なのですね。彼は小豆島の南郷庵でひっそりと41年の生涯を閉じました。彼の死を看取ったのは隣家の老婆ただ1人だったそうです。

 

 それにしても私が尾崎放哉の存在を初めて知ったきっかけは,高校の国語の教科書に彼の句が紹介されていたからです。

 

 「咳をしても一人」

 

 衝撃的な句でした。高校生の私は,俳句と言えば季語が入った五七五という有季定型句しか知りませんでしたので,こういう俳句もあるのかと新鮮な感動も覚えました。種田山頭火も尾崎放哉も同時代に生きた俳人で,荻原井泉水を共通の師としていますが,行乞しながら全国を放浪した山頭火と比較し,放哉は職業人(生命保険会社)としての限界を感じて退職した後は厭世的となり,寺男などをして一箇所に留まりがちでした。動の山頭火,静の放哉と言われる所以です。

 

 でも,それぞれの多くの句の中でも,いわゆる境涯句と呼ばれるものを比較しますと,情感としては何となく共通する面が多々あります。放哉の句は特にもの悲しさを伴う諧謔性があります。ちょっと比較してみましょう。

 

 「ついてくる犬よおまへも宿なしか」 山頭火
 「堤(どて)の上ふと顔出せし犬ありけり」 放哉

 

 「けふもいちにち風をあるいてきた」 山頭火
 「今日一日の終りの鐘をききつつあるく」 放哉

 

 「悔いるこころに日が照り小鳥来て啼くか」 山頭火
 「雀のあたたかさを握るはなしてやる」 放哉

 

 「雲がいそいでよい月にする」 山頭火
 「こんなよい月を一人で見て寝る」 放哉

 

 「閉めて一人の障子を虫が来てたたく」 山頭火
 「障子しめきつて淋しさをみたす」 放哉

 

 「咳がやまない背中をたたく手がない」 山頭火
 「咳をしても一人」 放哉

 

 「おちついてしねさうな草枯るる」 山頭火
 「これでもう外に動かないでも死なれる」 放哉

 

 さて,明日は尾崎放哉の命日です。彼の句にはもの悲しさを伴う諧謔性があると申しましたが,私は次の句は特に好きですし,この句にはそういった諧謔性があると思いませんか。

 

 「ねそべつて書いて居る手紙を鶏に覗かれる」 放哉

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