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2012/03/12

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 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(増田俊也著,新潮社)という本は,各頁上下二段組みなのに701頁もある大著です。大変に読みごたえがありました。読後の率直な感想はというと,史上最強の柔道家木村政彦という人物が好きになったということです。この本はノンフィクションで,相当綿密かつ広汎な取材に基づいて書かれたもので,柔道(柔術)を心から愛する著者としては,木村政彦と柔道の名誉回復を図りたいと一心に思い,打撃(当て身)を伴う柔道こそが最強だということを著したかったのではないでしょうか。ただ,内容は素晴らしいのですから,せめてタイトルは「木村政彦の真実」くらいにしておけばよかったのに,と思いました。

 

 昭和29年12月22日といえば,まだ私もこの世に生まれておりませんが,プロレスは戦後,庶民の人気を徐々に集め,日本プロレス協会の力道山がスターとしてその頂点を極めようとしておりました。そしてその日,その力道山と,史上最強の柔道家木村政彦との巌流島決戦が行われたのです。でも,考えてみればプロレスというのはブック(台本)のあるフェイク(八百長),いわばショーですよね。この巌流島決戦についても,事前に力道山と木村政彦との間で,61分3本勝負のうち,1本目は力道山,2本目は木村政彦,3本目は時間切れ引き分けというブック(台本)になっていたのです。

 

 ところが,途中までは確かにプロレスだったのですが,突如として力道山がブック(台本)破りを行って,木村政彦を騙し討ちし,強烈な右のパンチを繰り出し,掌底で危険な箇所をメッタ打ちし,さらにマットに座り込んだ木村の顔面をそれこそサッカーボールを蹴るような態様で二度にわたって蹴り,そして木村をマット中央部に引きずった後にその頸椎部を蹴りつけ,狙い澄ましたように掌底でこめかみ部分を打ち,立ち上がった木村をさらにメッタ打ちにして,彼をマットに沈めて血の海にしたのです。凄惨なシーンであり,極めて残酷でした。力道山というのは一体どんな人間だったのか,その人間性を疑わざるを得ません。ユーチューブでもその動画はアップされておりますが,これはもはやプロレスなどではなく,力道山が仕掛けた一方的な喧嘩であって,極めて危険かつ卑怯な振る舞いだったのです。

 

 力道山は,実はこういったブック(台本)に沿った念書を木村にだけ事前に出させ,自分は要求されてもそのうちに出すと言って約束を果たさず,当て身(打撃技)は木村のみ禁止とし,挙げ句に試合後には「試合中に木村が引き分けにしようと言ってきた」と記者に述べたり,木村に差し入れさせた念書を公表したりもしました。彼にとって史上最強の柔道家木村政彦の存在は目の上のたんこぶだったのでしょう。結局,木村は力道山から,リングサイドの観衆,そして多くのテレビ視聴者らの前で恥をかかされ,敗れたことになってしまいましたが,これはプロレスのブック(台本)破りの騙し討ちに過ぎず,勝ち負けを論ずるのは本来間違っております。実際問題として,木村政彦の柔道の抜きんでた強さは別格,史上最強であり,プラジリアン柔術のメッカであるブラジルでも,あのマラカナンスタジアムにおいてエリオ・グレイシーを一蹴し,その圧倒的な強さを示しています。最初から真剣勝負ということであれば,木村は事前に体をつくり,コンディションを整えた上で,力道山を寝技に持ち込み,得意の腕がらみで一気に仕留める強さをもっていたでしょう。・・・でも,ブック(台本)があったものですから,木村政彦はこの巌流島決戦の前日においても,日本酒1升4合と瓶ビール6本を飲んでしまっておりました(笑)。この巌流島決戦の後,木村は師匠の牛島辰熊の「勝負の世界だ。言い訳するな。」の言葉どおり,その後も男らしく多くを語りませんでした。

 

 この巌流島決戦の後,木村政彦は「力道山に敗れた男」としての屈辱を味わい続け,そのうち世間からも忘れ去られていく存在になります。木村は75歳で天寿を全うしますが,巌流島決戦の時は37歳でしたから,ちょうどその後半生は後悔に苛まれる人生を送らざるを得なかったのです。しかしその人格は人から愛され,柔道家をはじめとして多くの人の尊敬を集める存在でした。どうでしょうか,私は素人ですから分かりませんが,仮にしかるべき人達を対象にして,史上最強の柔道家は誰かというアンケートをとった場合,間違いなく木村政彦がトップになるような気がします。

 

 もし木村政彦がアマチュア柔道の世界にずっと身を置いていたならば,その現役時代,指導者としての時代を通して,木村政彦の名がプロレスや力道山によって貶められることもなかったのでしょうが,いまさら何を言ってもはじまりません。本当はプロレスの世界になど入らなければ良かったのです。戦後のどさくさの最中,よほどの基盤がない限り,アマチュア柔道だけでは食べていくことはできなかったのでしょうし,木村政彦は妻の病気の薬代も稼ぐ必要がありました。

 

 木村政彦は,最愛の妻である斗美(とみ)さんが結核に罹り,ストレプトマイシンの値段が高くて日本では手に入らず,アメリカに渡ってプロレスでお金を稼ぎ,そのお金で薬を買って日本に送り,妻の結核を治そうとしていたのです。木村はその辺りのことについて,「愛する者が病気で死にかかっている。自分が嫌なことを我慢すれば治せるとわかっていたら,君ならどうする?」と述べています(同著681頁)。また彼は,その最晩年に病床に伏してから,長女の友子に「斗美は俺の太陽だったんだよ」と述べております(同著673頁)。

 

 木村政彦は,愛妻や子供たちのために,終戦直後は闇屋などをやって稼ぎ,家族の生活費を稼いだりしておりました。きれい事を言っているような状況ではなかったのでしょう。木村政彦は男の中の男だったと思います。師匠の牛島辰熊とともに,木村政彦のその波瀾万丈の生き方は,私にも多くの示唆を与えてくれます。

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