弁護士ブログ

いわゆる「従軍慰安婦」問題のこと(5)

 

 さて,売国の極みである「河野談話」はどのような背景事情から出されたものなのでしょうか。これは河野という者が官房長官だった時の官房長官談ですが,その当時の官房副長官だった石原信雄氏は次のように述べております。

 

 「調査した書類からは一切強制連行した証拠は見つからなかった。根拠となったのは、彼女(元慰安婦を名乗る者)らからの聞き取り調査と証言だけである。これは『強制連行がなかったとすると、韓国世論を押さえられない。賠償は請求権協定により、一切要求しないから、あったことにしてほしい』と依頼され、政治的に認めたものである」(杉本幹夫著,「『植民地朝鮮』の研究」展転社)

 

 本当に浅はかです。外交上その場を凌ぐことができれば,日本国,私達の父祖や散華された方々をこんな形で貶めてもよいのでしょうか。宮沢喜一や河野洋平に共通していることは,いわゆる東京裁判史観に凝り固まり,特定アジア(中国,韓国,北朝鮮)に阿り,歴史を考察する上で垂直的な思考を欠いていることです。

 

 宮沢内閣による卑屈な謝罪,「河野談話」は万死に値し,後の歴史に極めて大きな禍根を残すものです。平成19年7月にアメリカ下院で「慰安婦非難決議」が採択され,これを主導したのが反日的活動で有名,中国系からの資金的援助が取りざたされているマイク・ホンダという下院議員です。私はある日曜日の朝のテレビのニュース番組で,その当時このマイク・ホンダが出演しているのを見ました。その際,日本軍が「従軍慰安婦」を強制連行したとする根拠は何かと質問されたとき,マイク・ホンダは「それは明らかだ。何より日本政府が認め,謝罪しているではないか。」という趣旨のことを述べ,それ以外に根拠は示さなかったことをはっきりと覚えています。また,その非難決議前,評論家の櫻井よしこさんやすぎやまこういちさんらが,アメリカワシントン・ポスト紙上に,慰安婦募集に日本国や軍による強制はなかった旨の意見広告を出した際,欧米の反応は冷ややかなものでした。というのも,日本政府が一旦はこれを認め,謝罪しているのに,あとで覆すのは見苦しいというような雰囲気が支配したからです。

 

 このようなことからも,この「河野談話」などの問題性は看過できず,後世に極めて大きな禍根を残すものなのです。しかしながら,民主党の前原なる者も,現首相の野田なる者も,「人道的見地から知恵を絞っていきたい。」などと述べ,この「河野談話」を前提として新たな基金か何かでも設けようとするかのような口吻をもらしています。バカにも休み休みなれ,と言いたい。そんなことをすればますます「河野談話」が定着してしまいます。一刻も早くこんな売国的な談話を撤回し,真実を公に表明すべき責任が日本国政府にはあると思います。

 

 最後に,このいわゆる「従軍慰安婦」問題の本質,核心を見事についていると思われるものとして,小野田寛郎氏の「私が見た従軍慰安婦の正体」という論述があります。私は戦後生まれですから,戦争中のことは勿論知りません。でも,この小野田寛郎氏のこの問題に関する論述は極めて説得力があり,かつ,それが真実,実態だったのだろうと確信しております。インターネットをおやりになる方は,「小野田寛郎 慰安婦」とキーワードを入れて検索してみてください。そしてじっくりと読んでください。

 

 日本という国は,そして日本国民は,日本という国と日本国民を貶めようとしている反日勢力に対し,いわゆる歴史力を磨いた上でもっと毅然と対応すべきでしょう。そしてそういう為政者を選ぶべきでしょう。そういう観点から選ばれた者こそ,選良というのでしょう。評論家の櫻井よしこさんは,「日本人は今,世界一、自分の国の歴史を知らない人たちになっている。自分の国の歴史を知らない人が、何で国民なのか。日本人の歴史を知らない人が、何で日本人なのか。フランスの哲学者が言いました。『歴史を知らない人間は人間ではない』と・・・。」と述べています。

2011年12月27日

いわゆる「従軍慰安婦」問題のこと(4)

 

 名古屋にも雪が積もりました。いよいよ年末ですし,ここら辺りで冬の風物詩などをテーマに何か心温まるお話でもと思ったのですが,タイトルのテーマは何とか一気に完結しなければなりません。しばらくのお付き合いを・・・。

 

 東京裁判史観で凝り固まった宮沢喜一という首相は,平成4年1月の訪韓直前,くだんのアカヒ,いや朝日新聞のデタラメ記事が出されたものですから,全くオタオタしてしまいました。この者は盧泰愚大統領との会談で何と,謝罪と反省を8回も繰り返したといいます。こんな新聞記事内容の真偽をロクに検証,調査もせずにですよ・・・。要するに,この者の極めて軽率かつ売国的な言動は,いわゆる「従軍慰安婦」問題について,日本国や軍が朝鮮人女性を挺身隊の名目で強制連行等したということを認めたに等しいのです。少なくとも韓国をはじめ,諸外国はそのように受け取ったことは間違いありません。その理由は後に触れます。

 

 そして極めつけは,平成5年8月4日に公表されたいわゆる「河野談話」です。これは正に万死に値するものであり,我々の父祖や散華された方々の名誉を著しく毀損し,国益を損なう行為だったのです。実は,旧日本軍による強制連行を裏付ける資料は,日本政府による調査結果においても,また韓国政府による調査結果においても存在しないことが明らかになっております。この「河野談話」は,談話発表の直前にソウルで行われた,元慰安婦16人の密室での証言内容を基礎にして,旧日本軍による「強制連行」を事実上認めてしまったものなのです。しかも,この密室での証言については,その内容はもとより,元慰安婦の住所,氏名も公表されず,裏付け調査も許されなかったのです。どうしてあれだけの時間と人員をかけての日韓両政府による調査結果よりも,この密室での反対尋問も許されない「証言」の方を軽信しなければならないのでしょうか(「正論」2012年1月号の大師堂経慰氏の論文)。旧日本軍によって強制的に慰安婦にさせられたとして日本に損害賠償を求める訴訟が提起され,慰安婦と名乗り出た金学順らの韓国人女性,中国人女性が出現しましたが,彼女らの証言の信憑性には多くの疑問が呈せられていますし,訴訟も当然に敗訴しております。

 

 当時は公娼制度があり,慰安所というものも存在し,軍がこれを管理したり,慰安婦の輸送に軍が関与したこともあるでしょう。しかし,慰安所というものは何も日本軍だけが設置,管理していたのではありません(ウィキペディア「慰安婦」の項を参照)。それに慰安婦は職業として成り立ち,兵隊さんの数倍の高給取りだったのですし,親などへの前渡し金の返済が済めば自由にやめることもできたのです。旧日本軍によって強制的に慰安婦にさせられたとして日本に損害賠償を求める訴訟を提起した彼女らの名誉を損なう言論は慎みたいのですが,確かにその境遇には不遇なものがあり,業者(女衒)と親とが人身売買まがいのことを行い,本当に不本意だった人も存在するでしょう。「強制された」と恨みの気持ちを有するのも無理はありません。しかしながら,仮に悪質な業者(女衒)がかつて存在し,その悪行があったとしても,これがすなわち日本という国,軍が「強制した」ものだと評価することはできないのです。

 

 仮に旧日本軍が,売国的な文筆家たちが指摘する「慰安婦狩り」のようなことをやっていたとするなら,その当時に大問題になっていたに違いありません。しかしながら,吉田清治の「私の戦争犯罪」で展開された慰安婦狩りの事実が作り話であったことは既に明らかになっておりますし,現実に,平成4年1月の宮沢内閣による謝罪までの戦後47年間,韓国政府からも韓国国民からも慰安婦問題についての抗議などは一切なかったのです。繰り返しますが,旧日本軍による強制連行を裏付ける資料は,日本政府による調査結果においても,また韓国政府による調査結果においても存在しないことが明らかになっています。(怒りをもって続く)

2011年12月26日

いわゆる「従軍慰安婦」問題のこと(1)

 

 どうやら,韓国の大統領が日本までノコノコやって来て,いわゆる「従軍慰安婦」問題を再び提起して,「誠意を示してくれ!」とのたまったそうですね(笑)。最近,ソウルにある日本大使館前に元従軍慰安婦を象徴する少女象が違法に建てられたようですが,この韓国大統領は,もし日本が誠意を示さなければ,「第2,第3の象が建つ」とまでのたまったそうな(爆笑)。どうしようもありません・・・。まずはっきりと言っておきますが,韓国政府が,日本大使館前にこれみよがしにこんな象を建てることを事実上放任する行為は,外交関係に関するウィーン条約第22条第2項違反の疑いが強いのです。この条項には,「接受国は、侵入又は損壊に対し使節団の公館を保護するため及び公館の安寧の妨害又は公館の威厳の侵害を防止するため適当なすべての措置を執る特別の責務を有する。」とあるのです。

 

 まあ,いずれあのような像は撤去されるでしょうが,日本国首相は,このたびの韓国大統領の申し出を毅然として突っぱねる必要があります。そして一応は突っぱねたのでしょうが,私自身が本当に遺憾に思っているのは,日本政府はこのいわゆる「従軍慰安婦」問題についても,昭和40年に締結された日韓国交正常化に関する協定により全ての賠償問題は解決済みだという説明に終始していることです。もとよりそんな説明ではダメなんです。それだと,「従軍慰安婦」が世界史上に存在し,しかも問題として指摘されている強制連行,強要をあたかも日本政府ないし軍が行ったことを前提としてしまうことになりはしませんか。真実はそうではないのです。「慰安婦」はともかくとして,「従軍慰安婦」が世界史上に存在したことは全くありませんし,問題として指摘されている強制連行,強要を日本政府ないし軍が行った事実を裏付けるに足る証拠は存在しないのです。そのように説明した上で,韓国からのこのような不当な要求を拒絶すべきです。それを野田という人は,「人道的見地から知恵を出していきたい。」などと曖昧な発言をしています。彼は日本国の国益を背負っているという自覚が全くありません。それ以前にも同趣旨の発言をしていた前原という人も同様です。特に民主党にはこんな人しかいません。全く情けない限りです。

 

 また,この問題の表現の仕方は,「従軍慰安婦問題」とすべきではなく,「いわゆる『従軍慰安婦』問題」とすべきなのです。特に,「いわゆる」と付けなければなりません。

 

 まずは,用語の問題です。「従軍慰安婦」なる言葉は戦時中も,その後当分の間も全く存在しませんでした。これを言い出したのは,千田夏光という作家です。この者が1973年に「従軍慰安婦 正編」を上梓し,その本の中で「従軍慰安婦」なる言葉を使用したのが最初で,全くの造語なのです。戦時中は,従軍看護婦や従軍僧侶はおりましたし,それらの方々は軍属です。でも,「従軍慰安婦」などはおらず,慰安婦がいただけなのです。そして,「従軍慰安婦」なる造語をした千田夏光がその本の中で書いたこと,特に「従軍慰安婦」に関する記述には裏付けのない事実や矛盾が多いことはつとに指摘されております。ウィキペディアの「千田夏光」の項を参考にされたらいいと思います。(怒りをもって続く)

2011年12月19日

史観

 

 昨夜はお酒を飲まなかったこともあり,久しぶりに半身浴をやってみました。体が芯から温まったようで,本当にグッスリと眠ることができ,朝食の配ぜんの手伝いに間に合いませんでした。我が家では伝統的に,うちのカミさんが朝食を作ってくれ,私と娘のあかねちゃんが配ぜん等の全ての手伝いをするということになっております。あかねちゃんがこの手伝いに遅れると,私は思わず不機嫌な表情を出してしまいますが,今朝は私が寝過ごして配ぜんに間に合わなかったのです。でも娘のあかねちゃんはいつもと変わらない表情です。あかねちゃんの方が大人であり,人物です(笑)。

 

 さて,12月8日(日本時間)は日本の真珠湾攻撃により大東亜戦争が勃発した日です。新聞紙上でも「日米開戦70年」などという文字が躍っております。この大東亜戦争に対する見方といいますか,史観というのは,遅れてきた帝国主義国である日本が悪逆の限りを尽くして暴走し,アメリカ等の連合国やアジア諸国に大損害を被らせたという「日本悪玉論」があります。これが東京裁判史観というやつで,今でもこの史観に頭を占領されている日本人が圧倒的に多いのではないでしょうか。

 

 今日も仕事というものがありますので,多くは語りませんが,4つの点についてだけ触れておきたいと思います。(1)第1は,「裏口からの参戦(Back To The War)」という言葉どおり,アメリカは何とか参戦をしたくて仕方がなく,日本に最初の一撃を加えさせる必要があったのです。淵源を辿れば「オレンジ・プラン」ということでしょう。(2)第2に,コミンテルン(共産主義国際組織)の暗躍を抜きにしては語れないということ,つまりその当時は各国にコミンテルンの工作員が政府中枢に入り込み(日本では尾崎秀実ら),とにかく戦争により国家を瓦解させそこに共産主義政権を樹立するという運動が活発だったのです。(3)第3に,戦後のいわゆる東京裁判というやつは,裁判所設置条例を含めて国際法上全く根拠がなく,刑事不遡及の原則は踏みにじられ,いわば「政治ショー」に過ぎなかったのです。まともな国際法学者ならば誰でも分かることで,オランダのレーリンク博士,インドのパール博士はそのことをつとに指摘しておりました。(4)第4に,中長期的にみたアジアの姿に触れざるを得ず,仮に日本という国がなかったとしたら,朝鮮も東南アジア諸国も未だに独立を果たしていなかったかもしれません。アジアの解放という世界史的意義があったことは明らかです。

 

 前にもこのブログでお話ししたのですが,「日本人が知ってはならない歴史」,「続・日本人が知ってはならない歴史」,「日本人が知ってはならない歴史・戦後篇」(以上,いずれも若狭和朋著,朱烏社)の三部作はすごく参考になりますし,「真珠湾の真実-ルーズベルト欺瞞の日々」(ロバート・B・スティネット著,妹尾作太男訳,文藝春秋)なども大変参考になります。

 

 最後に,タイ国の元首相であったククリックド・プラモードの言葉を引用しておきます。

 

「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。」

2011年12月08日

高台寺党

 

 新撰組には伊東甲子太郎,篠原泰之進,服部武雄,藤堂平助,加納鷲雄などの人材がおりましたが,彼らは慶応3年(1867年)に御陵衛士として新撰組とは袂を分かちました。当時は一口に「尊皇攘夷」と言っても,思い描く構想やアプローチの仕方は様々で,新撰組は公武合体ないし佐幕派,伊東甲子太郎らはどちらかというと勤王倒幕派に近かったのだろうと思います。これでは袂を分かつしかありませんね。

 

 伊東らは最終的には高台寺の塔頭の月真院を屯所としたので,「高台寺党」とも呼ばれます。明日,11月18日はこの高台寺党のリーダー格であった伊東甲子太郎の命日なのです。七条油小路で彼は新撰組に暗殺されました。その僅か3日前の11月15日には,あの坂本龍馬も近江屋で暗殺されております(下手人には諸説あり)。物騒な時勢だったのですね。幕末の京都ですもの,当然といえば当然ですか。

 

 実は今年の2月には京都の七条油小路を歩き,伊東絶命の地といわれる本光寺に行って参りました。伊東甲子太郎の殉難の地碑は,油小路沿いの本光寺の門内にあるので,見せてもらおうと思いましたら門が閉まっていました。その当時は本光寺のご住職がお亡くなりになって間がなく,後任が決まるまでの間は,門の鍵は道路のはす向かいの床屋さんのご主人に預けられているということが分かりました。それを知ったのは,門前で困惑している私に,その床屋のご主人が気さくに声を掛けてくれたからです(笑)。その当時このご主人は,私のように伊東甲子太郎の殉難の地碑を見に来る観光客のためにその都度門の鍵をあけてくださり,若干の案内をしてくれていたのです。

 

 リーダー格であった伊東甲子太郎の命を奪われた高台寺党は,七条油小路の辻に置かれていた伊東の遺体を引き取りに行った際,待ち伏せしていた新撰組に襲撃され,二刀流の手練れで新撰組随一ともいわれた剣豪服部武雄,それに藤堂平助らも絶命します。でも,高台寺党はその後,篠原泰之進らが馬上の近藤勇を鉄砲で射撃し,肩に重傷を負わせ,それ以降の近藤勇は体調面もすぐれず,どうやら新撰組の指揮を執ることについての意欲が徐々に失われていったようですし,流山で新政府軍に捕縛された「大久保大和」と名乗る近藤勇をそれと見破ったのは,やはり高台寺党の加納鷲雄でした。

 

 新撰組と高台寺党,因縁浅からぬものがあります。

2011年11月17日

ちょっと確かめてみました

 

 私は中学生でもないのに,育鵬社の「中学社会 新しい日本の歴史」の市販版を実際に読んでみました(笑)。というのも,最近では中学校の歴史,公民の教科書の採択をめぐって,育鵬社の歴史・公民の教科書が何かと新聞紙上を賑わしていますよね。それで一体全体,どんな内容の教科書なんだろうかと確かめてみたくなり,そのうちの歴史教科書を読んでみたのです。

 

 育鵬社の中学生向けの歴史教科書の内容は,立派なものだったと思いますよ。改正された教育基本法の趣旨に最も合致している教科書ではないでしょうか。私としては,第一次世界大戦以降,第二次世界大戦終結までの歴史の記述についての一部には物足りなさを感じた部分もありますが(例えば,コミンテルンが各国で暗躍していた実態に触れていないなど),中学生向けですからこれでいいと思います。人物コラムなどでは,西郷と大久保,シュリーマン,モース,イザベラ・バード,パール判事なども登場します。中学生の彼らとしても,日本や日本人を誇りに感じ,歴史に興味を持ってくれるような内容です。

 

 ところで,育鵬社版に反対する市民団体は「戦争を正当化する教科書を多くの学校現場に押しつけるのは許せない」と反発しているようですが,バカも休み休み言え,バカにも休み休みなれ,と言いたい。戦争を正当化する内容になどなってはおりませんよ。彼らの中には特定のイデオロギーに凝り固まってしまったプロ市民もいるでしょうし,本当に思考の停止した平和ボケもいるでしょう。彼らに共通しているのは,いわゆる東京裁判史観というやつです。日教組などは戦後GHQの肝いりで出来たような団体ですし,そのGHQの目的はこの東京裁判史観の徹底です(いわゆるWGIPです。)。この点について江藤淳氏はその名著「閉された言語空間」の中で,「要するに占領軍当局の究極の目的は、いわば日本人にわれとわが眼を刳り貫かせ、肉眼のかわりにアメリカ製の義眼を嵌めこむことにあった。」と見事に喝破されております(223頁)。

 

 それにしても残念なのは,小田原市議会の愚挙です。在日本大韓民国民団神奈川県湖西支部が出していた陳情,すなわち育鵬社・自由社の公民・歴史教科書を不採択にするように求める陳情を,何と,小田原市議会は賛成多数で採決するという愚挙に出たのです。語るに落ちるとはこのことです。こんな的外れで厚かましい陳情をする方もする方ですが,こんなばかげた採択をする市議会議員の劣化ぶりは目を覆うばかりです。小田原が生んだ二宮尊徳先生は,どんなに嘆き悲しんでいることでしょう。この一件からしても,永住外国人に地方参政権を付与することの危険性は推して知るべしでしょう。

 

 一方で,横浜市教育委員会は,定例会を開き,来春から4年間,市内147校の市立中学などで使用する歴史と公民の教科書として,育鵬社の教科書を採択しました。よろこばしいことですし,全国的に見ても育鵬社の教科書が採用されるケースは徐々に増えているようです。日本国民も,もういい加減に,いわゆる東京裁判史観から脱却して,ごく普通の考え方に近づくべきでしょう。

2011年10月07日

あの日

 

 8月18日の政変というのは,江戸末期の文久3年8月18日に起こった事件で,会津藩,薩摩藩を中心とした公武合体派が,長州藩を主とする急進的な尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件です。思いますに,割と短かった新撰組の活動期間の中で,新撰組が最も輝いていた時期は,この8月18日の政変あたりから,翌元治元年の池田屋事件を経て,同年7月19日の禁門の変(蛤御門の変)のあたりでしょうね。新撰組にとっては,この頃がもっとも生き生きとしていた時代でしょう。それにしても,8月18日の政変の頃は,まだ会津藩と薩摩藩とが手を携えていたのですから,その後の大きな歴史のうねりを感じてしまいます。

 

 禁門の変(蛤御門の変)の際にも,新撰組は大活躍しました。京都御所の現在の蛤御門(正式名称は新在家御門)が,なぜ蛤御門と呼ばれるようになったのかについては,光格天皇の頃に発生した天明の京都大火(大火事)の際,それまではめったに開かなかったこの門が,この大火事の時にやっと開かれたという事実に由来しているとのことです。つまり,貝殻のように固く閉じていたのに,熱い火にあぶられてようやく開いた,ハマグリのようだ,ということで蛤御門になったそうです。

 

 今年の3月11日は,かつてこのブログでも書きましたように,私は京都旅行の幹事をやっていまして,新撰組コースの責任者だったのです。何度も下見にも行きました。その旅行コースのことですが,あの日,3月11日,私たちの貸し切りバスがちょうど蛤御門を出発し,その次の行き先である八木邸に向かう途中で,あの東日本大震災が発生したのです。その時点では私たちは全く気付いておりませんでした。その日の午後5時ころに知ったのです。

 

 このお盆の時期,改めてこのたびの大震災でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りしますとともに,ご遺族の方々や被災された方々に対し,心からのお見舞いを申し上げます。

2011年08月18日

政治化してしまっている歴史

 

 いやー,暑い,暑い・・・。夏だから当たり前だということは十分に分かってはいるつもりですが,それでも思わず「暑い」という言葉が口をつきます。昨晩は,お風呂に入って横になり,テレビを付けましたら,「ビートたけしのTVタックル」という番組が放送されていました。この番組は割と面白いので昔はよく見ていたのですが,久しぶりに目にしました。

 

 そうしたら,ゲストとして2人の「ジャーナリスト」と称する中国人が出演しており,そのうちの男性の方が,男性にしては落ち着きがなく甲高い声で,尖閣諸島は中国の領土だと述べていました。これに対して評論家の三宅久之さんが,アメリカが沖縄を日本に返還した際,沖縄県の一部である尖閣諸島の返還について中国は異議を唱えたのか,と突っ込んでおりました。そうしましたら,その中国人の「ジャーナリスト」と称する男性は,「その頃はまだ中国は力がなかったからだ。今は強いから主張できる・・・」みたいなことをギャーギャー言っておりました(笑)。その言い方や言い分を耳にしていると,魯迅の「阿Q正伝」に主人公として登場する「阿Q」を思わず思い出しました。正にこの男性は「阿Q」でした(笑)。

 

 思いますに,歴史学というのは,領土を含め,客観的な史料等に基づいて史実を研究する学問だと認識しておりますし,客観性を有するが故に学問の名に値すると思います。でも,中国は易姓革命の国であり,征服した王朝が後に自己の都合のよいように歴史を書き換え,それが「正史」とされてきました。1949年には中国共産党が中華人民共和国を樹立し,現在でも中国共産党が一党独裁を維持し,現在中国で教えられている歴史というのは,いわば「中国共産党史観」に基づくものです。ですから,中国における歴史ないし歴史学は,さきほど私が述べたような定義とはほど遠く,彼らの言う歴史はむしろ政治なのです。

 

 さきほどの「阿Q」さんが述べた,「その頃はまだ中国は力がなかったからだ。今は強いから主張できる・・・」みたいな論はそのことを如実に示しており,力があれば何とでもなるんだ,客観的な史料に基づく史実研究なんかどうでもよい,国際法もへったくれもないという立論なのです。韓国も似たようなものです。韓国国内で歴史として教えられている内容が,いかに史実に反した歪められたものであるか。竹島にしても,韓国の当時の大統領であった李承晩が,国際法を完全に無視して李承晩ラインなるものを引いた上で,竹島をその中に取り込み,実効支配をし始めたというのが歴史的事実ですし,韓国が竹島の領有権を裏付けるものとしてかつて提出したことのある史料はことごとく矛盾点をはらんでおります。日本がこの問題に関し,かつて2度にわたって国際司法裁判所での解決を提案したにもかかわらず,韓国がいずれもこれに応じなかったのは,国際法上は自らの立場に分がないことが分かっているからでしょう。所詮これらの国々にあっては,歴史は政治なのです。

 

 ところで,私たち日本国民は,尖閣諸島にしても竹島にしても,日本に固有の領有権があるという結論自体は知っていても,中国や韓国のいいがかりのような主張に対して,理論的にきちんと反論でき,きちんと理論的に日本の主張を説明できるでしょうか。評論家の櫻井よしこさんは,フランスのある哲学者の「歴史を知らない人間は,人間ではない」という言葉をかつて引用されたことがありました。歴史を知らなければなりませんね。あー,それにしても暑い,暑い・・。

2011年08月16日

全く比較になどならない件


         
 私が初めて司馬遼太郎の「坂の上の雲」という小説を読み終えた時,読後にもっとも印象に残った登場人物(いずれも実在の人物)は,広瀬武夫少佐,児玉源太郎大将,秋山好古少佐の3人でした(軍における階級はいずれも日露戦争当時)。

 

 児玉源太郎大将の日露戦争における活躍は見事で,その勝利に最も貢献した一人であると言われています。その卓越した先見性と戦略眼,人望によるものです。以下の記述はウィキペディアなどによるものですが,神風連の乱の鎮圧の直後には,東京から現地あてに真っ先に送られた電報に「児玉少佐ハ無事ナリヤ」とあったことからも分かるように,軍当局が当時若干24歳の一少佐であった児玉源太郎にかける期待の大きさが窺われます。また,日本軍の参謀教育のためにドイツから教官として派遣されていたドイツ陸軍参謀将校のメッケルは,日露戦争が勃発した際,既に帰国していたドイツにおいて「日本に児玉将軍が居る限り心配は要らない。児玉は必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べたそうです。

 

 そして,児玉源太郎といえば,日露戦争が勃発した当時は,もう既に陸軍大臣,内務大臣,文部大臣を歴任していたキャリアの持ち主だったのですが,参謀総長の大山巌に特に請われ,参謀次長になった人です。これは明らかな降格人事ですが,私心のない無私の児玉大将はこれを受け,職務を全うするのです。

 

 結局,児玉源太郎大将は日露戦争を勝利に導いた貢献者の一人であり,勝利のために心血を注ぎ,その心労がたたったのでしょうか,戦争終結の約8か月後に脳溢血で急逝されたのです。誠の武士でした。「坂の上の雲」を読んだ後,どうしても児玉源太郎のことが頭を離れませんでした。この国難の時に,こういう日本人が政治の中枢にいてくれたら・・。

 

 さて,話を急に現在に引き戻してしまい恐縮ですし,実に暗澹たる気持ちになってしまうのですが,菅直人という希代の俗物は,ことあるごとに高杉晋作や吉田松陰先生のような歴史上の人物に自分を照らし合わせようとします。笑止千万です。そして,「歴史に名を残したい」というのが口癖のようです。バカも休み休み言え,となります。このような姑息な手段ばかり弄するような存在とは全く次元というものが違います。また菅という人は,児玉源太郎を尊敬しているようで,自分の息子にも「源太郎」と命名しています。児玉源太郎を尊敬しているのはいいのですが,こういう本当に尊敬に値する人物と自分とをまさか同一次元で論じてはいませんよね。やめてくださいよね。菅という人は,自分の息子である菅源太郎氏が国政選挙(衆議院議員総選挙)に立候補してこれを応援した際,「世襲」批判をかわし,「世襲ではない。政治家として優れた人間がたまたま息子だった。」とコメントしております(爆笑)。全く・・・臆面というものがありません。

2011年07月01日

山南敬助と大津

 

 今日は仕事の関係で滋賀県大津市まで出かける。これまで長浜や彦根に行った記憶は確かにあるが,大津はどうだったかな。でも調べみると大津というのは,天智天皇が近江大津宮に遷都して以来の長い歴史をもつ古都なのだ。ところで大津で連想したのは,どういう訳か新撰組の山南敬助のことである。

 

 山南敬助は近藤勇の試衛館時代からの人物で,新撰組を語るときには欠かせない。しかし,この山南敬助の最期には諸説がある。新撰組には局中法度があって,隊からの脱走は切腹となる。巷間よく言われているのは,山南敬助が,局長近藤や副長土方との路線の違い(尊皇攘夷のとらえ方,屯所の西本願寺への移転問題など),参謀伊東甲子太郎の加入による相対的な地位低下などにより新撰組を脱走し,追っ手となった沖田総司が大津宿で山南を発見して京都の屯所に同道し,切腹して果てたというものである。数年前に好評を博したNHK大河ドラマ「新選組!」でもそのように描かれていた。

 

 私は,新撰組の個々の隊士は割と魅力的に感じるのだが,特に山南敬助がとても好きである。新撰組の中ではそこそこ学問もあり,人格円満で対外的な交渉力もあり,小野派一刀流免許皆伝(その後北辰一刀流)の腕利きで毅然とした対応もとることのできる人物である。その切腹の際の見事な態度は語りぐさとなっている。

 

 さきほどの説に立脚するとして,大津宿で共に一泊した山南と沖田はどんなことを話したのであろうか。昔話だろうか,それとも今後のことであろうか・・・。山南は「脱走」の前に「江戸に行く」との置き手紙を残していたという。しかも,よりによって京都から近い東海道大津宿を経由し,追っ手に発見されやすい状況も厭わなかった。彼は本当に「脱走」の意図があったのだろうか。追っ手に捕まったら今後のことをじっくりと局長近藤らと話し合いたかったのではないか。謎が残る。

 

 最終的には切腹となったのだが,彼は介錯を沖田総司に頼んだ。沖田に対するあつい信頼があったのだろう。今日の大津旅行は,山南敬助を偲びながらの小旅行となる。

2010年11月26日

この人物は今どんな評価を受けているのだろうか

 

 中国の紙幣は人民元札のようだが,私は今までに一度も手にしたことがないので正確なことは知らないが,人民元札の肖像はいずれも毛沢東のようである。この人物は,現在では中国でどのような評価を受けているのであろうか。具体的には,中国の独裁政権を維持している中国共産党では毛沢東をどのような人物だったと総括しているのか,また,民衆レベルではどんな評価なのか,少なからず関心がある。でも,紙幣にその肖像が載る訳だから,それはそれはかの国では高く評価されているのであろう。

 

 読み終えるのに少し時間がかかってしまったが,「毛沢東の私生活(上・下)」(李志綏著,アン・サーストン協力,新庄哲夫訳,文春文庫)という本を読破してしまった。毛沢東を評価するに当たっては,彼が指導者として重要な役割を果たした歴史的事実,たとえば,百家争鳴・百花斉放運動(「反革命分子」のおびき出し),大躍進(どだい無理な政策・目標設定による約2000万人とも言われる餓死者の発生),文化大革命(果てしない権力闘争と大量の殺戮,政治的混乱と文化破壊など)の評価を抜きにして語れないし,これらの点については既に多くの著作がある。でもこの毛沢東の私生活ぶりについてはどうか。中国共産党によって神格化が図られ,その権力維持のためには明らかにできないような私生活面での情報はヴェールに包まれていたのである。

 

 この本は,毛沢東の主治医として約22年間も身近で接することを余儀なくされてきた李志綏博士という医師が書いた本である。ごく身近にいた人間でなければ知り得ず,語り得ない内容が多く含まれている。この本の中には「解題 毛沢東とは何だったのか-本書に寄せて-」というアンドリュー・ネイサン(コロンビア大学教授)の論考があり,次のような記述がある。

 

 「史上、毛沢東ほど数多くの人々の上に、それもあれほど長期にわたって権力をふるった指導者はほかにいないし、また自国民にあれだけの破局をもたらした指導者も皆無である。毛沢東のあくなき権力欲と裏切られることへの恐怖は、足もとの〝身内〟や国家を混乱の坩堝に陥れつづけた。毛沢東のビジョンと手練手管は中国を「大躍進」とその戦慄すべき結末である大飢饉や「文化大革命」に突入させ、数千万人の死者を出したのだった。そればかりではない。二十二年間も主治医として務めた人物によるこの回想録で語られている毛沢東と同じくらい、親しく観察された指導者がほかにいただろうか。・・・現政権は今なお毛沢東の公式イメージという間接照明によって統治しているのである。いかなる公認された回想録を見ても、李博士のそれと同じような真実の響きを持った毛沢東像は描かれていない。本書はこれまで毛沢東について書かれたもののなかで、またおそらくは歴史上のどんな独裁者について書かれたもののうちでも、もっともわれわれの蒙を啓いてくれる本だ。」(同書510頁,522頁)。

 

 ページ数が多くてとても大変だけれど(笑),一度は読んでみてもいい本だと思う。

2010年11月24日

東京裁判についてもう一度勉強してみよう

 

 とりわけ民主党政権の内部に巣くっており,精神的なバックボーンを構成していると思われるのは,いわゆる自虐的な東京裁判史観なのではないかと思う。官邸内で様々なことを画策している仙石由人などといった反日的,確信左翼的存在を目の当たりにする時,特にその感を強くする。また,中国がいつも外交カードとして切り出す日本政府要人の靖国神社参拝問題も,「A級戦犯」の合祀がその根底にあるため,この東京裁判なるものとは切っても切り離せないのである。

 

 そこで,日本国民の皆さんはそれぞれ,会社員,主婦,自営業,農漁業,学生など様々の立場でご多忙かと存ずるが,できるだけ時間を作って,このあたりでもう一度,東京裁判のことについて勉強してみる必要があると思われるが,いかがでありましょうか。

 

 このたび,「世界がさばく東京裁判-85人の外国人識者が語る連合国批判」(明成社,佐藤和男監修)という本を読み終えた。パウロじゃないけど,目からうろこが落ちた。心ある世界中の識者がその当時,あるいはその後に,東京裁判の欺瞞性を鋭く指弾していたのである。東京裁判を実行する極東国際軍事裁判法廷の設置は「極東国際軍事裁判所条例」に基づくというが,そのような条例は国際法上は全く存在根拠を欠くものである。また,「平和に対する罪」などはその当時付け焼き刃に作られたもので,事後法によって処罰されることを禁止する刑罰不遡及の原則に明らかに反している。また東京裁判で展開された不戦条約(ケロッグ-ブリアン条約)の法的解釈も無理がある。

 

 要するに,この東京裁判なるものは,GHQを中心とした勢力が,いわゆるWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の一環として日本国民を二度と刃向かわせないようにするための「ロボトミー手術」のようなものだった。徹底的に自虐史観を植え付けるためのものだったのである。

 

 この本の中から,印象的な一節を引用して,今日のブログはおしまい,おしまい。

 

「・・・日本人に損害をうけて怒りにもえる偏見に満ちた連合国民の法廷で裁くのは、むしろ偽善的である。とにかく、戦争を国策の手段とした罪などは、戦後につくりだされたものであり、リンチ裁判用の事後法としか思えなかった。」(99~100頁,GHQ対敵情報部長エリオット・ソープ准将)
「この裁判は歴史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、自分の息子には軍人になることを禁じるつもりだ。[なぜ東京裁判に不信感を持ったかと言えば]日本が置かれていた状況と同じ状況に置かれたならば、アメリカも日本と同様戦争に訴えたに違いないと思うからである。」(79~80頁,GHQ参謀第二部部長C・A・ウィロビー将軍)
「被害を受けた国が、敵国国民にたいして刑事裁判権を行使することは、犯罪者側の国民からは、正義というよりはむしろ復讐であると考えられ、したがって将来の平和保障の最善策ではない、ということである。戦争犯罪人の処罰は、国際正義の行為であるべきものであって、復讐にたいする渇望を満たすものであってはならない。戦敗国だけが自己の国民を国際裁判所に引き渡して戦争犯罪にたいする処罰を受けさせなければならないというのは、国際正義の観念に合致しないものである。戦勝国もまた戦争法規に違反した自国の国民にたいする裁判権を独立公平な国際裁判所に進んで引き渡す用意があって然るべきである。」(76頁,カリフォルニア大学教授ハンス・ケルゼン)
「極東国際軍事裁判所は、裁判所の設立者から法を与えられたのであり、申立人の権利を国際法に基づいて審査できる自由かつ独立の裁判所ではなかった。それ故に、パール判事が述べたように、同裁判所は司法的な法廷ではなかった。それは、政治権力の道具に過ぎなかった。」(64~65頁,アメリカ連邦最高裁判所判事W・O・ダグラス)

2010年10月06日

少しは歴史というものを勉強したらどうかしら・・・

 

 ブログを更新できない日というのは,たいていはすごく忙しい日か,あるいは二日酔いの日である。それはそれとして,どうやら秋らしくなってはきた。自宅の北側の部屋(最近家族からあまり弾かれる機会が少なくなって寂しそうにしているピアノのある部屋)の北側の窓から涼しい風が入るようになってきたからである。また,今朝の空には秋ならではの雲があった。

 

 良い本を読み終えた。「真珠湾の真実-ルーズベルト欺瞞の日々」(ロバート・B・スティネット著,妹尾作太男監訳,荒井稔・丸田和美訳,文藝春秋)という本である。日本軍の真珠湾攻撃は全くの奇襲であり,アメリカ政府や軍にとっては不意打ちだったという説を根底から覆す内容の本である。実は当時のアメリカは,技術的,施設的に日本の無線通信を傍受することが可能で,かつ暗号を解読し,その内容を把握することも可能であったのであり,決して真珠湾攻撃はアメリカ政府や軍にとって不意打ちではなかったのである。ナチスドイツの攻撃にさらされている友邦イギリスを助け,ナチスによるホロコースト(ユダヤ人虐殺)を一刻も早く止めさせる必要があった。また,アメリカとしては中国を初めとするアジア地域での自国の権益を確保したいという思惑もあり,日本は邪魔な存在であって,日本に対するいわゆる「オレンジプラン」も策定していた。しかしその当時のアメリカは孤立主義をとっており,国民の大半は第二次世界大戦に参戦することに反対していた。

 

 しかしアメリカ政府,ルーズベルト大統領(彼はユダヤ系のいわゆるエージェントという説も有力である)としては,経済封鎖等によって日本を徹底的に追い詰め,日本の方から「第一撃」を加えさせればアメリカ国民の参戦意思も決定的になると考えた。従前からのオレンジプラン,海軍情報部極東課長であったアーサー・H・マッカラム海軍少佐作成にかかる「(日本に対する)戦争挑発行動八項目覚書」の実行,ABCD包囲網,大西洋憲章に込められたアメリカ参戦密約が着々と進められていったのである。要するに,歴史の真実は,経済封鎖により窮地に陥った日本に「第一撃」を加えさせて,参戦の大義を得たアメリカが太平洋側から参戦を果たすという構図である。「裏口からの参戦(backdoor to the war)」というやつである。

 

 では,真珠湾攻撃で犠牲になった軍や民間人の死をどのように説明するのか。ルーズベルトはそれも承知でやむを得ないと考えていたのか。それはそのように解さざるを得ない。少なくとも,真珠湾攻撃の前,日本軍による無線通信の傍受情報は,あろうことか太平洋艦隊司令長官であったハズバンド・E・キンメル大将や,陸軍ハワイ部隊司令官であったウォルター・ショート中将には提供されていなかったという異常な背景があったからである。真珠湾攻撃が決して不意打ちではなく,むしろアメリカ政府が日本を経済的に追い込み,挑発して「第一撃」をさせるように計画的にし向けていったのではないか,「真珠湾攻撃」を事前に十分に把握していたのではないかという疑念については,アメリカ国内において戦中も戦後も指摘されていた。本書は,アメリカの「情報の自由法」を活用して得られた膨大な量の通信傍受記録などの第一級の史料や,生存する当時の軍関係者からのインタビューなどに基づいて著述されており,相当の説得力をもっている。

 

 あのダクラス・マッカーサー将軍は,戦後にアメリカ議会において大東亜戦争は日本の防衛戦争であったと明確に証言している。歴史というものは,その認識の仕方によっては,自国に全く誇りが持てなくなったり,無力になったりして,国の精神的土台を揺るがしかねないものである。その意味では歴史の真実を知ることは大いに意味がある。最近やたらとマスコミで流行っている池上彰のような人間に教えてもらう「歴史」は全く取るに足らないのです(笑)。

2010年09月09日

歴史を知らぬ者が「談話」など発表するな

 

 わが事務所の盆休みも終わり,仕事への復帰である。それにしてもこの暑さ,初老の身には大変こたえる。

 

 この夏の暑さにも閉口しているが,特にこの夏に暑苦しさと不快感を覚えるのは,いわゆる「菅談話」である。日韓併合100年を意識してのことであろう。時の首相が閣議決定を経て,その「歴史認識」を表明するのだと。菅直人という市民運動家や,この談話発表を裏で強引に推進した仙石由人という反日左翼は,一体全体,少なくとも1910年の日韓併合条約締結前後及びそれ以降の歴史を知っているのであろうか。知っていたのなら「その意に反して行われた植民地支配」などという表現はとても使えまい。

 

 首相として,しかも閣議決定を経て歴史認識に関する「談話」を発表するのであれば,歴史を正確に知っていることが前提とされなければならず,歴史を知らぬ者が「談話」など発表すべきではない。村山富市という人間にしてもしかり。要するに彼らには,歴史に名を残したい(私に言わせれば「汚名」だが)という功名心,あるいは,権力を利用して自己の私的な主義・主張を表明しておきたいというエゴしかない。

 

 日韓併合条約の締結に至るまでの歴史の真実を知るべきである。日本と韓国それぞれの賛成派と反対派の存在,李容九ら文明開化派の最大政治組織「一進会」による併合推進(「韓日合邦を要求する声明書」),李完用総理大臣をはじめとする過半の閣僚の推進・容認,日本政府の消極・逡巡,李総理の韓国皇帝への内奏とその了承,条約の成立という一連の流れがあり,日韓併合条約は国際法上も有効であり,諸外国もむしろこれを歓迎する向きが多かったのである。談話では,なぜか「意に反して」となってしまう。

 

 また,「植民地支配」という表現も,史実からすれば全く当を得ていない。イギリスがインドやビルマで,またフランスがインドシナで,さらにオランダがスマトラなどで,またアメリカがフィリピンで行っていたような植民地政策とは質的に全く違う。それら真実の歴史を学ぶには様々な好文献があるが,最近出版された「朝日新聞が報道した『日韓併合』の真実-韓国が主張する『七奪』は日本の『七恩』だった」(水間政憲著,徳間書店)というのも大変参考になる。歴史を単にイメージでしか捉えていない人たちは,特にこの本などを読んでみるべきであろう。

 

 いずれにしても,繰り返し述べるが,首相として,しかも閣議決定を経て歴史認識に関する「談話」を発表するのであれば,歴史を正確に知っていることが前提とされなければならず,歴史を知らぬ者が「談話」など発表すべきではないのである。

2010年08月17日

特異だけど好きな番組

 

 昨日のブログでも書いたが,真夏の連続ゴルフに疲れ果てて日曜日は寝たきりになっていた。最近ではあまりテレビを見ることは少なくなったが,日曜日に日本テレビ系列で放送される「たかじんのそこまで言って委員会」という番組は楽しみにしている。取り上げられるテーマは比較的興味深いものが多く,かつ勉強にもなるし,時には出演者が普段の僕の意見を代弁してくれるところがあってすっきりすることも多い。

 

 本当にくだらない企画の多い,しかもくだらない出演者の多い番組の中で,「たかじんのそこまで言って委員会」という番組は好きである。ある意味では,反日マスコミが嫌がるテーマ,意見がどんどん取り上げられ,本音で語られる特異な番組である。こういう番組が特異であるということが嘆かわしい。

 

 寝たきりになっていた先日の日曜日には,この番組の最初の方で日本の近現代の歴史認識に関するテーマなどが取り上げられた。文学者・評論家の西尾幹二さん,歴史学者の所功さん,政治評論家の三宅久之さんらが,それぞれの歴史認識,識見に基づいて比較的深い議論をマナーよく行っていた。歴史をよく勉強していなければできないような議論だった。いわゆる「東京裁判史観」に歪められていない歴史に対する正確な理解と認識は必要不可欠である。

 

 それにしてもこれらの出演者の方々と対極をなしていたのが田嶋陽子という人だ。哀れにもこの人は歴史を深く理解,勉強していないために,さきほど挙げた方々の議論には参加することができず,ヤジまがいの茶々を入れたり,あとは高音域の声でヒステリックに説得力の全くないことをまくし立てるのみである。同じ出演者の中でも歴史に対する理解の深さの違いが如実に出た時間帯であった。あとは,この番組は好きなのだが,辛坊治郎という司会者はでしゃばり過ぎであり,出演者に対する敬意,礼節を欠くことが多く,好感がもてない。

 

 この日は晩酌はしないと心に決めていた。しかし,そのままテレビを見ていたら,竹内結子という女優さんが冷たくしたグラスにビールを注ぎ込み,美味しそうに飲むコマーシャルを目の当たりにしてしまった。よほどの下戸でない限り,こういうコマーシャルを見せられてビールを飲みたいと思わない男性は皆無であろう。つくづく罪作りなコマーシャルではある。その晩は結局はビールで晩酌と相成った。

2010年08月10日

歴史を学びたい

 

 日本人が海外に留学などをした際,自分が属する日本という国の歴史や文化について,割りと正確にしかも自信をもって説明できているだろうか。残念ながらこれについては僕は悲観している。というのも,今の日本の学校教育では,歴史を学ぶ時間が絶対的に不足しているし,仮に歴史を学ぶ時間が少しばかり割り振られていたとしても,その内容は「東京裁判史観」に基づく戦勝国から押しつけられた歪んだ歴史観であったり,「近隣諸国条項」に配慮した卑屈なものであったりする内容だからである。さらに,ご家庭で父親などが子に日本の歴史や文化などについて話すなどといったことも果たしてなされているのかという疑問もあるし・・・。残念なことだけど。

 

 以前にもこのブログで紹介したことがあったが,若狭和朋という人が書いた「日本人が知ってはならない歴史」,「続・日本人が知ってはならない歴史」,「日本人が知ってはならない歴史・戦後編」という三部作を読み返している。大変参考になる。日本人の大人なら,一度は読んでもバチは当たらないと思う。本当に。

 

 WGIPという言葉をご存知だろうか。これは,ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの略で,大東亜戦争は日本が仕掛けた人類に対する犯罪行為であったという原罪感を頭脳に植え付け,日本古来の精神文化(よい面)を奪ってしまうというプログラムである。現状では,今でもこのプログラムを施した結果は成功という形で残存しており,日本は精神的には立ち上がれないでいる。日本がまともな国になっていくには,何よりもこれを構成する日本人の認識自体が極めて重要な意味を有している。「歴史力」という言葉は評論家の櫻井よしこさんの造語だが,歴史力を磨く必要があるのではないだろうか。小・中・高校生にそれを磨く機会を与えるような良いテレビ番組がないかなと思う。

 

 そして,その正しい歴史を学ぶことを前提とした番組にプラスして,時には小・中・高校生も「息抜き」の機会が欲しいのだろうと思う。そういう時には,テレビ東京系列の「ピラメキーノ」という番組がお勧めである。何となくであるが企画が面白い。「ダルい時に使おうだるだるEnglish」とか「おんなごころ!おかあさんといっしょ」などはどことなく面白い。「ダルい時・・・」のダルさんは若いのにあの体型。何とか食生活などを改善しないと成人病になってしまうだろう。このままだと成人病の「当選確実」というやつである(笑)。あとは,「・・・明日のピラメキーノ占い」も,星座ごとに幸運度のランキングが出るが,それぞれの星座にも男子と女子がいるにもかかわらず,男女いっしょくたで同じ順位であるところが面白い(笑)。

 

 ただ,こういう面白い番組も,あくまでもこどもたちは正しい歴史観を持っているということが前提であるべきである。

2010年08月05日

歴史は願望や政治ではない

 

 恐らく雑誌だったと思うけど,そこに掲載されていた書評を読んで「日韓がタブーにする半島の歴史」(室谷克実著,新潮新書)という本を買った。これはとても説得力のある本だった。せいぜい200ページくらいの本だったが,古書の研究に立脚した論述であり,ある意味では目からウロコが落ちた。具体的にどんな内容の本なのかを紹介するには,この本の表紙カバー内側の次のような記載が最も端的であろう。

 

 「古代日本は朝鮮半島から稲作などの先進文化を学び、国を発展させてきた-という〈定説〉は大嘘である。半島最古の正史『三国史記』には、新羅の基礎を造ったのは倭人・倭種、中国の『隋書』には、新羅も百済も倭国を文化大国として敬仰していたと明記されているのだ。日韓古代史の「常識」に異議を唱え、韓国の偏狭な対日ナショナリズムと、日本のあまりに自虐的な歴史観に歪められた、半島史の新常識を提示する。」

 

 この本の意義と内容を要約すると以上のようなことになろう。実はこの本の元原稿の段階では本で掲載されたものの2倍ほどの量に及んでいたということだ。そこにはもっと古書の原典からの引用が豊富で,説得的な論述が展開されていたのだろう。

 

 昨年の12月,当時民主党の幹事長だった小沢一郎は,中国の胡錦涛主席と会談した際には「こちらのお国(中国)に例えれば、解放の戦いはまだ済んでいない。来年7月に最終の決戦がある。人民解放軍でいえば、野戦の軍司令官として頑張っている。」などと恥ずかしくなるような迎合をしているし,その直後に訪れた韓国では,ある大学で江上波夫という学者の騎馬民族征服説を韓国人に披露してここでも迎合をしている。情けないというか,恥ずかしいというか,その容貌どおり醜悪である。

 

 本来歴史学ないし歴史というものは,遺跡や古書などに基づいて史実そのものを客観的に研究する学問分野だと思うのだが,中国では特に近現代史,韓国では全般にわたって,史実そのものというよりも,政治や願望になってしまっている。そうしなければもたないような体制や民族意識なのかもしれない。さきほど紹介した本は,朝鮮半島の歴史を学ぶに当たっては,一読に値すると思う。古書の研究に立脚し,論述が説得的だからである。

2010年06月08日

惜しまれる落命

 

 あの薩長連合の立役者である坂本龍馬の命日がいつだかご存知だろうか。そう,11月15日である。では,かつて新撰組の参謀として活躍し,その後これと袂を分かって御陵衛士となった伊東甲子太郎の命日がいつだかご存知だろうか。そう,11月18日である。いずれも慶応3年(1867年)のことであり,龍馬と共に近江屋で襲撃された中岡慎太郎も結局は11月17日に死亡しているから,11月15日から18日にかけての僅か4日間で3名もの有為な人材が相次いで暗殺により落命しているのである。惜しまれる。

 

 坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺したのが誰なのかについては,最も有力な説は,佐幕派の急先鋒であった京都見廻組の佐々木只三郎らというものである。そのほかには,薩摩藩説も有力である。結局,龍馬は佐幕派からも倒幕派からも恨まれる立場にあったからなのか。でも,言い換えれば,龍馬はそれだけ動乱の幕末にあって大きな仕事をしたからだとも評価できる。さらには,漫画家の黒鉄ヒロシさんは,龍馬暗殺について,何とその3日後に暗殺される伊東甲子太郎率いる高台寺党犯人説を主張する。新撰組を犯人に仕立て上げるための証言などの出所が高台寺党から出されていることなどが根拠になっているようだ。龍馬らを暗殺した真犯人の確定については,決定的な証拠の不存在,当時の様々な人間関係,政治力学が複雑に絡み合っていて,決め手がない。

 

 伊東甲子太郎という人は,神道無念流をおさめた後,さらに北辰一刀流もおさめたほどの相当の使い手で,知的でもあり,尊王攘夷論では相当の理論家だったらしい。彼を七条油小路付近(近藤勇の妾宅のすぐ近く)で暗殺したのは新撰組隊士であることは間違いない。その理由は,伊東らが薩摩藩と気脈を通じ,新撰組の近藤らを暗殺して新撰組を勤皇倒幕へ向かわせようと画策していたからだそうだ。でも,伊東甲子太郎がこのような形で落命するのも,坂本龍馬や中岡慎太郎らの有為な人材と同じく,惜しい。伊東は,僕が何かしら親近感をもつ新撰組の山南敬助の切腹後,これを悼んで次のような歌を詠んでいる。


 「春風に 吹きさそわれて山桜 ちりてぞ人に おしまるるかな」

 

 いやー・・・,幕末あたりの歴史,人間関係,志士の思惑などはとても複雑だな。でも,その当時の歴史の流れや人物像について興味を持つ人が多いのも分かるような気がする。

2009年11月18日

いやな言葉

 

 粛清,何となくいやな言葉である。結構長いことかけて「マオ 誰も知らなかった毛沢東(上・下)」(ユン・チアン,ジョン・ハリディ著,土屋京子訳,講談社)という本を読んでいるが,この本の中にも至る所に粛清という言葉が出てくる。この本で記述されている個々の粛清は身の毛もよだつものである。粛清といえば,1863年(文久3年)の9月16日,季節的にはちょうど今頃であるが,新選組の芹沢鴨が内部で粛清されている。

 

 数年前に京都旅行に行った時には,その現場となった八木邸に入り,割と生々しい柱などの刀傷を見た。芹沢鴨という人間は,その当時の新選組では近藤勇と双璧の筆頭局長であり,体躯もたくましく,弁も立ち,誰と張り合っても位負けしないような雰囲気をもっていたという。出自も,水戸藩の郷士の出であり,近藤等からは一目置かれていた存在だが,何せ素行が悪かった。大和屋焼き討ち事件はその最たるもので,直接はこれがきっかけで会津藩から粛清の命令が出たという。

 

 その9月16日の夜は土砂降りの雨のだったようだが,芹沢鴨は配下の平山五郎とともに,土方歳三,沖田総司,山南敬助,原田左之助らに粛清されたのである。芹沢は,酒に酔ってもいたが,置いてあった机に躓いて体勢を崩した時に沖田から一太刀浴びた。芹沢とは倫ならぬ仲であった愛人お梅もこの時に命を奪われている。この粛清劇には,あの山南敬助も加わっているのだから,新選組が組織を盤石にして,脱皮を図るためにはどうしてもこの粛清が必要だったということであろう。

 

 芹沢にとってみれば,無念の死であったろうが,その後の新選組の行く末を考えると,むしろその方が幸せだったという側面もあるだろう。芹沢鴨があの甲陽鎮撫隊の一員として少し間抜けな戦に加わっている姿は想像できないし,哀れだからである。

 

 今回の総選挙では,自由民主党が国民から粛清された感じでもある。僕は,二日酔いしながらこのまとまりのないブログを何とか書いているが,あまり支離滅裂なことばかり書いていると,読者から粛清されてしまうかもしれない(笑)。でも,粛清が必要な時もあるのであろうけど,粛清って何度聞いてもいやな言葉だなあ(笑)。

2009年09月18日

沖田総司

 

 5月30日の土曜日は,久しぶりにゆっくりと過ごすことができた。最近仕事では忙しいし,火曜日と金曜日はマタイ受難曲のための合唱練習。そして,先週は特に夜は飲む機会が多かった。そんな訳で土曜日はようやく自宅で骨休め。ぜんまいざむらいのDVDをゆっくりと堪能することもできた(笑)。

 

 5月30日は,新撰組の沖田総司の命日である。享年27歳。慶応4年(1868年)のことだから,今から141年前のこと。天才剣士の名をほしいままにし,新撰組では一番組長を務め,撃剣師範で突きが得意だったようである。剣の腕前では,永倉新八(神道無念流免許皆伝),斎藤一(一刀流),吉村貫一郎(北辰一刀流免許皆伝),服部武雄(二刀流)らと並び称された。

 

 数年前の大河ドラマ「新選組!」では藤原竜也が沖田総司役を好演していたし,そのほかの映画等でも,どちらかというと色白で美剣士のイメージになっている。でも,実際の沖田は,「新選組遺聞」(子母澤寛著)などによると,背が高く,いかり肩で,ほお骨が出て口が大きく,色黒だったと伝えられている。陽気で近所の子供たちともよく遊んでやっていたらしい。

 

 確かに,27歳で病死するのは酷な運命ではあったが,僕はどちらかというとその後の新撰組隊士の行く末を考えると,結果的には良かった面もあったのではないかと思う。甲陽鎮撫隊の戦い方のように無様な経験をしなくて済んだし,何よりも戊辰戦争で分かるように,戦(いくさ)の質が違ってきており,もはや沖田の得意とする刀や槍による戦(いくさ)の時代ではなくなっていたのである。火力(鉄砲や大砲)の勝負の時代に突入していた。天才剣士であった沖田も,圧倒的な鉄砲等の武器の前では悲哀を感じざるを得なかったのだ。沖田の短い人生で最も輝いていた時代が,疾風のように現れ,疾風のように活躍し,疾風のように去っていった新撰組の最も輝いていた時代に一致する。                     

2009年06月01日

山南敬助の心の内

 

 今日,2月23日は,新撰組の前身となった浪士組が初めて京都に到着した日であるし,奇しくもその2年後の同じ日に新撰組総長となっていた山南敬助が京都前川邸の西の出窓のある部屋で切腹した日でもある。

 

 近藤勇の道場である江戸の試衛館時代から,近藤,土方,沖田らと行動を共にし,芹沢鴨一派の粛正にも重要な役割を果たした彼が,何故切腹する羽目になったのだろうか。その心の内は・・・。これまで何回かこのブログでも新撰組のことに触れてきた。新撰組や個々の隊士は非常に魅力的で好きなのだが,仮に僕が新撰組にいたとするなら,その組織内での立場などからすると,僕はやはり山南敬助タイプだとも思っているので,山南敬助の脱走,切腹の際の山南の心情が思いやられる。

 

 仙台藩脱藩,学問もあり,北辰一刀流免許皆伝,温厚で人当たりがよく,組織内でもある時期までは近藤局長らに頼られるまでの存在だったのに・・・。思うに,山南敬助としては,尊皇攘夷思想が強く,自分が身を置いている新撰組に次第に違和感を抱いたか,あるいは身の置き所がなくなったと感じていたのだろう。というのも,池田屋事件にみられるように(既に病気だったのかもしれないが,山南敬助は参加していない),反幕的な動きをしていた長州藩士らをやたら取り締まっていた新撰組の活動が幕府の走狗のように山南には感じられたのだろう。伊東甲子太郎が参謀として迎え入れられた後には,その尊皇攘夷思想にさらに触発された面もあるし,ますます「総長」職がお飾りのように感じられ,身の置き所がなくなりつつあったと思う。

 

 そして,決定的だったのは,新撰組の西本願寺への屯所移転問題だろう。これは長州藩ら反幕府勢力に好意的だった西本願寺を自己の監視下に置こうという土方らの意図があったが,山南はこれに明確に反対するも全く受け入れられず,「もはやこれまで」と感じて脱走に至ったのであろう。そこで,新撰組の局中法度に触れたとの理由で切腹を命じられた。山南は切腹して果てたが,その最後は非常に立派なものだったという。

 

 ところで,山南敬助の考えていた尊皇攘夷とはどんな内容のものだったのだろう。これは全く根拠などはないし,想像に過ぎないが,恐らく坂本龍馬(「船中八策」)のような考え方,もはや完全攘夷というものではなく,薩摩や長州などの雄藩が結束し,西洋の文物をまずは取り入れ(魂まで洋化するものではない),国としての基盤を確立していくというようなものだったのではないか。いずれにしても,山南敬助は,新撰組隊士の中でも僕が興味深く感じる存在で,数年前の旅行では,京都の光縁寺にある彼の墓にもお参りをしてきた。そして,祇園でお気に入りの一銭洋食をちゃっかり2枚も食べてきた。

2009年02月23日

近藤勇の心の内

 昨日,つまり2月8日は,新撰組の前身である浪士組が結成され,江戸から京都に向けて出発した日である。文久3年(1863年)というから,今から実に146年も前のことである。僕の場合は,数年前のNHK大河ドラマ「新選組!」をきっかけに新撰組に興味を持ったのだから,新撰組歴はそれほど古くはない。新撰組の歴史的な位置づけについてはいろいろな見方があるが(佐幕派としての活動がかえって倒幕・維新を早める結果となったなど),それぞれの志を立て,必死で白刃の下をかいくぐって奮闘した彼らには魅力を感じる部分も多々あるのだ。僕は好きだな。

 

 さて,新撰組に関する本は数多く読んだが,やはり,子母澤寛の,いわゆる新選組三部作,「新選組始末記」,「新選組遺聞」,「新選組物語」は必読であろう。作者の子母澤寛の祖父も彰義隊の一員として上野戦争を戦い,転戦して函館五稜郭まで行ったのだし,子母澤自身,全国を歩き回って新選組隊士の生き残りや関係者に直接会って取材したという。三部作のうち,「新選組始末記」,「新選組遺聞」の2つは,全国で取材した内容に基づく「聞き書き」で比較的史実に近い内容だと思われるし,「新選組物語」はその名が示すように物語,創作であろう。

 

 ところで僕は,新撰組に関する本を多数読んではみたものの,局長の近藤勇は副長の土方歳三をどのような存在として受け止めていたのだろうかという興味,関心もあった。でも,僕にはなかなかその辺りのことは解らなかった。ただ,土方歳三ファンには悪いが,仮に僕が新撰組隊士だったら,土方にはちょっと「引いてしまう」部分を感じただろう。前にもブログに書いたが,あえてタイプ分類をすると,僕は山南敬助タイプなのだ。

 

 前置きが長くなったが,「新撰組物語」の最後の章である「流山の朝」の中に,さきほどの僕の疑問を解いてくれるような,ドキッとする箇所があった。この章は,もう官軍(直接の折衝役は薩摩藩の有馬藤太)に捕縛される直前の様子を描写したものだが,近藤が,身の回りの世話をしてくれる若い娘お秋に対し,土方に対する思いや心情を吐露する場面があった。その核心部分のみ引用すると(343項以下),

 

「わしは、京にあって、局長として如何なる我儘でも通る絶対の立場にありながら、何んとなく不自由な、何んとなく狭ッ苦しい、何んとなく息苦しい、言わば圧迫を感じていたのです。わしは、時々、そんな妙な窮屈を感じたので、何んの為だろうと、深く考えては見たけれども、どうしてもわからなかった。それが今朝、本当に、はっきりとわしにはわかったのだ。わしは、下の土方に事毎に敗ける、土方以下の人物だったのです。だから、ゆうべ、ああして土方と別れ別れになった。三十年の盟友と袂をわかって、わしは泣かねばならぬ筈でしょう。泣くのが本当です。それをわしはほっとした。そして、泣くべきわしが、はじめて、そこに己を見出し、自由なうれしさを味わい、何にかこう小鳥が籠を放されたような心地がして、本当に安心して、こんなに眠って終わったのです。わしは、心の中の敵、親しければ親しいだけに、深く食い込んでいた敵と離れたという事をはっきり知ったうれしさに、外の敵などはもう眼中にない。どうでもいいのだ。近藤が全く自由な一人の近藤をして、生きる事も死ぬ事も出来るうれしさ・・・」

 

 これはあくまでも物語であって,近藤勇自身が語ったことではないが,全国を取材した上での「聞き書き」の名手である子母澤寛の深い洞察力に基づく描写であるだけに,説得力もある。僕のもやもやした疑問がある程度解け,我が意を得た瞬間でもあった。

2009年02月09日

新撰組の魅力(続)

 新撰組は何しろ武闘集団だから,個々の隊士の評価に当たっては,「強さ」すなわち剣の腕も一つの基準になるだろう。そうしたときに,剣の腕の凄さという観点から強いて5人だけ挙げろとなると,次のような面々じゃないかと思う(これは強さの順ではなく五十音順)。沖田総司,斎藤一,永倉新八,服部武雄,吉村貫一郎。

 

 ただ,局長の近藤勇の天然理心流は,刀術だけでなく,棒術,柔術,気合術などを総合した極めて実践的な剣法だったようで,彼は先に挙げたようなそうそうたる面々を統率していたのだから,彼が一番強かったという論も成り立つ。でも,ここではその論はひとまずおくことにする。さてさて,沖田,永倉,斎藤は新撰組の各組の組長を務め,剣術師範だったのだからその実力の凄さは言うまでもない。戊辰戦争が勃発した初期の段階で,薩摩藩が圧倒的な火力(鉄砲など)を駆使している中,永倉などは,副長の土方に要請されて弾丸が雨あられのように降る中に,果敢に斬り込みにいったというのだからその気の強さも凄い(また,永倉の曲がったことの嫌いな謹厳実直な性格も好き)。

 

 ところで,服部武雄は結局は新撰組と袂を分かち,伊東甲子太郞率いる御陵衛士(いわゆる高台寺党)に属したが,その強さは半端じゃなかったらしい(二刀流で勇猛果敢)。

 沖田より強かったという説もあるくらいだ。

 

 また,吉村貫一郎は,浅田次郎の「壬生義士伝」の主人公であり,創作の部分が相当あるらしいのだが,この人物も相当に腕が立ったように描かれている(映画では「新選組で一番強かった男」というふれ込みまである)。僕は,この「壬生義士伝」という小説を読んでいて不覚にも泣いたことがある(同じ著者の「輪違屋糸里」を読んだ時はアッケラカンとしていたのに・・。)「壬生義士伝」にはそれくらい感動的な部分がいくつかあり,吉村貫一郎の生き様に大いに感動した。腕は立つし,学問もできる。かげで「守銭奴」と誹られながらも,なりふり構わず故郷(南部藩)に置いてきた妻子を必死で守ろうとするのである。いいなぁ,こういう人は・・・。

2008年12月09日

新撰組の魅力

 何気なく新聞の雑誌広告欄を見ていたら,「月刊現代」(最終号と書いてある)の対談企画として「男たちの魅力『新選組』最高の隊士は誰だ」とあった。

そうだなぁ,いつどんな時でもこの企画は成立するよなと思った。何しろ,激動の時代が生んだ新撰組の華々しさと悲劇性,隊士の面々の途方もない魅力と謎,どれをとっても興味深いからである。

 

 さて,「最高の隊士は誰だ」となると,大方の人は土方歳三をまず挙げるのだろうし,近藤勇,沖田総司なども有力なんだろう。でも僕は,このあまりにも魅力的過ぎる存在(団体)の中で,「最高」は決められないのではないかと思う。不遜な言い方だけど,知れば知るほど決められなくなってくるのが普通だ。

 

 ただ,自分だったらどのタイプに近いのかなということからすると,僕は山南敬助か伊東甲子太郎に近い存在だったのではないかと思う(ビジュアル面は別として。)。数年前の大河ドラマ「新選組」は毎週楽しみに見ていたが,山南敬助の「決断」に至るまでのいきさつや切腹場面は,自分の姿を投影させてみていた。その後に家族と京都旅行に行った時は,当然のように光縁寺の山南敬助の墓参りまでしちゃったのである。

 

 墓参りで思い出したが,僕は2年前の家族旅行で,会津若松などに行き,同市内の阿弥陀寺にある斎藤一の墓参りもぬかりなくやった(墓碑銘は「藤田五郎之墓」だったと思う。)。そう,僕は隊士の追っかけなのである。この斎藤一という人物も極めて謎めいていて興味がある。相当の手練れであり,多くの修羅場をくぐり,その後西南戦争にも従軍している。大河ドラマではオダギリジョーが格好良く斎藤一役をやっていたが,写真を見る限り,実物はフランケンシュタインを少し細くしたような感じである。(続く)

2008年12月08日