弁護士ブログ

あさきゆめみし

 

 私は日本人です→日本が誇る古典文学といえば「源氏物語」です→でも私は「源氏物語」の全体的なあらすじすら理解していません→それでは日本人として少し恥ずかしいような気もします→でも全部を読むには時間が・・・→そうだ!取り敢えずは漫画か何かで,せめてあらすじだけでも理解しよう・・・

 

 そんな訳で,前にもこのブログで触れましたが,とうとう漫画「あさきゆめみし」完全版(大和和紀著,講談社)の第1巻から読み始めました。なかなかいいですね。取り敢えず第1巻を読み終えたところですが,興味を持ち続けて読むことが出来ましたし,これならば大まかなあらすじは理解できます。ここまでの主な登場人物は,光源氏,桐壺の更衣,藤壺の宮,頭の中将,弘徽殿の女御,葵の上,六条の御息所,夕顔,惟光,紫の上,末摘花などが出てきました。そういえば,高校の古文の時間に少しばかり習ったなぁ,懐かしいなぁ,と僅かに思い出すようなシーンもあります。

 

 それにしても,こういう女流文学が平安時代中期に成立していたなどとは,本当に日本の文化は奥深いと思います。愛に対する渇望,老若男女を問わずどうしても払拭できない嫉妬という感情,人生のはかなさ・無常観などなど,この紫式部という人物の観察力,洞察力,表現力は類い希だと思います。六条の御息所が生霊を放つ場面,情念といいますか,これには凄みがあります。

 

 この「あさきゆめみし」という漫画のタイトルは,「いろは歌」の一部から採用されているのですが,その「いろは歌」のことが今朝の産経新聞の「産経抄」に書かれていました。四十七文字で無常の世界を表現したのですね。これも日本人ならではの素晴らしい世界です。

 

 そういえば,日本文学に魅せられ,現在でもその研究に勤しんでおられる碩学ドナルド・キーンさんは,この2月11日に名古屋大学に講演でお越しになるそうです。私は行くことができませんが,何とかその講演録でも入手できたらなと思っております。

2012年01月20日

源氏物語


         
 源氏物語を最初に少し学んだのは,高校生の古文の授業の時でした。確か「若紫」の帖をやったことは覚えておりますが,学んだと言ってもほんの少しです。その後,大学生時代にはあんなに時間があったのに,食指が向きませんでした。私の浅はかな考えだったのかもしれませんが,主人公である光源氏に軽薄なプレイボーイのイメージが払拭できず,そんな世界には全く興味がないなと思っていたのです。大学生時代は,そんなものよりは三島由紀夫だと思っていたのです。

 

 でも年齢を重ねる,いや馬齢を重ねるにしたがって,だんだんと日本の古典文学の価値がどれくらい素晴らしいものなのか,日本人に生まれながらそれを知らないままに死ぬのはもったいない,口惜しいという気がしてきたのです。最近でも,「日本霊異記」や「雨月物語」などを読みましたが,やはり源氏物語の世界は知っておくべきでしょうね。

 

 知日家に限らず,外国人は源氏物語の存在を知る人が多いようです。外国語の翻訳も多いこともあり,源氏物語を読破した外国人も多く,源氏物語を研究対象にしている人も多いようです。源氏物語というのは一体全体どんな世界なのでしょうか。興味が湧いてきます。情念,嫉妬,諦観などの渦巻く世界なのでしょうかねぇ。

 

さて,問題は時間です。私だって世のため,人のために弁護士としての仕事に追われております。その現代語訳とはいえ,いきなり源氏物語の原典に当たるには勇気がいりますし,時間がありません。そこでふっと思い立ったのが,源氏物語の全ストーリーを網羅する分かりやすい漫画はないだろうかということでした。安易な方法で,邪道と言われるかもしれませんが,マンガから入ろうと思いました。

 

 そこで知ったのが,「あさきゆめみし」(大和和紀著)というマンガです。これでいきましょう,取り敢えず・・・。マンガから入って行くのです,源氏物語という深い森の中に。まずは,「あさきゆめみし」(大和和紀著)の完全版の第1巻から第3巻までを買っちゃいました(笑)。

 

 それにしても「あさきゆめみし」ですか,なかなかのタイトルですね。これは,いろは歌(いろはにほへと・・・)からきているようです。

 

「色は匂えど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔いもせず」

 

 花は咲いてもすぐに散ってしまう。そんなはかない世の中にずっと同じ姿で居続けるものなどありはしない。人生という険しく困難な山道を今日もまた越えていくのかな。はかない一時の夢なんかは見たくないものだ。酔ってもいないのに・・・。

 

 これがいろは歌の大意なのですか。古くから日本人の感性というものは素晴らしい。

2011年12月13日

日本霊異記

 

 もう蝉の鳴き声も聞こえなくなりました。今年の夏を乗り切るのには苦労しましたが,いよいよ秋です。大変好きな季節です。

 

 それにしても最近,自分でも思うのですが,1つ1つのブログの文章が長過ぎはしまいか。あんまり長いと,全国6189万人のこのブログ愛好者も(笑),さすがに読む気が失せるのではないかと思い始めてきました。確かに,私は自分の仕事面でも裁判所に提出する準備書面はページ数が多めです。以前私が勤務していたボス弁護士も,口癖のように「お前の準備書面は長過ぎるわ。誰も読まんぞ,そんなの。」と言っておりました(笑)。でも私は,この点に関してはボスの真似はしようとは思いませんでした。だって,ボスの書面は短過ぎるんだもん(爆笑)。

 

 ああ,こうやって前置きなどをするから,1つ1つのブログの文章が長くなってしまうんですね。今日の本題は,日本霊異記のことです。今この本を楽しんでおります。年齢のせいか,それとも他に何か理由があるのかは知りませんが,最近では特に,この愛すべき日本の古い昔の文学に憧れるのです。

 

 日本霊異記というのは,正式名称は「日本国現報善悪霊異記」というもので,その成立年代はあの遠い昔,平安時代初期の822年ころと言われております。筆者は薬師寺の僧侶である景戒という人です。この本は一言で言えば仏教説話集です。基本的には因果応報を説き,良き結果を得たいと思えば良き因となる行為に務めよ,邪な心は禁物ですよ,というものです。でも,結構面白いんですよ。今は中巻の第32話まで進みましたが,当時の人々の生活,風俗の一部を覗くこともできますし,何よりも当時は聖武天皇を初めとして仏教を広めたいという強い気持ちがあり,そして実際に広まっていったのです。

 

 ①赤ちゃんが鷲にさらわれたのですが,悲嘆にくれていた父親が数年後に,本当に不思議なきっかけで,その子を育てていた家に偶然に宿泊して巡り会い,無事に引き取ることができた話とか,②以前に蛇に呑み込まれようとしていた蛙を助けたり,売られようとしていた蟹を買い取って放生してやった女性が,その後に屋根から侵入した蛇に迫られた際に,以前助けた蟹がその蛇を切って女性を助けた話とか,③その当時愛知県(名古屋市中区辺り)に住んでいた行いの正しい強力(力持ち)の女と,やはりその当時岐阜県(本巣町辺り)に住み,住民に迷惑をかけていた強力(力持ち)の女とが力比べをし,愛知県の方の女が勝ち,以後は迷惑をかけないように懲らしめた話とか,・・・なかなか面白いんですよね。それに,狐という名の由来(来つ寝)とかも分かります。

 

 私としては,今後も古典に対する憧れが続きそうです。

2011年08月30日

井上井月(その2)

 

 私が井上井月の存在を初めて知ったのは,種田山頭火に関する著作を通じてでした。山頭火は生前,井月に私淑し,心から敬慕していたようで,落栗が座を定めたように井月が落ち着いた長野県伊那を二度にわたって訪れ,二度目でようやく井月の墓参りを果たしたということです。

 

 井月という漂泊の俳人は,正に知る人ぞ知る存在で,その俳句史上の位置づけは,中井三好氏の次の言葉で尽くされていると思います。「井月が越後の長岡藩校で学んだ漢学、京の貞門俳諧で学んだ国学、副詞『な』などの確かな『てにをは』の活用、さらに全国津々浦々で見聞したもの等の博覧強記が素養となって、漂泊のうちに宿ったものが芭蕉の寂びの俳諧理念と結びついて、井月の『かるみ』の風体が成就していったのである。・・・芭蕉俳諧の中興と云われた与謝蕪村が天明三年(一七八三)に没してから、明治の正岡子規が俳句の写生論を唱えるまでのおよそ百二十年間は、俳諧は堕落の一途をたどり、俳諧に人なしと云われているのであるが、俳諧の歴史の流れは蕪村と子規の間に、見事に井月という芭蕉の姿を追った立派な俳人を配していたのである。」(中井三好著,「井上井月研究」162~163頁,彩流社)。

 

 それにしても井月の句に接するにつけ,本当に素晴らしいと思います。またその人となりについては,「あの人に限って、いつも顔色を変えたことがない、あゝいふのを聖人といふのでせう」(加納五声の老未亡人)とも評されています。このような井月が愛した伊那の自然と句碑を是非訪ねてみたいと思い,私は「ソースカツ丼」をだしにしてカミさんと娘のあかねちゃんとを連れ出してこの連休中に小旅行をしたのです(笑)。

 

 ところで,山頭火の句は自由律であり,井月のそれは定型句です。また,自分の置かれた状況,境涯といいますか,それに対する心情を吐露した句を境涯句というならば,山頭火は境涯句が比較的多いのに比べ,井月の境涯句は数えるほどです。この両者のことに関連し,江宮隆之氏は次のように述べております。

 

 「だが、井月と山頭火はその人生、世への執着、すべてにおいて異なる。山頭火が憧れた井月が、もし同時代に山頭火を見ていたら、親しくしただろうか、の疑問は残る。山頭火は、自己に執着して生き、世の中を否定しようとして生きた。井月は、反対にあるがままを受け入れて、飄々と生きた。『千両、千両』の声に井月の伊那谷での人生のすべてが籠められている。井月は、野晒しを承知のうえで伊那谷を放浪した。」(江宮隆之著,「井上井月伝説」303~304頁,河出書房新社)。

 

 まあ,いろいろな評価があるかもしれませんが,山頭火の句も私の心にしみ入るものが多くありますし,井月という存在とその俳句を知ることができたのもこれまた幸せだったと思います。

2011年05月09日

井上井月(その1)

 

 5月3日はカミさんと娘のあかねちゃんと3人で,長野県の伊那方面へ日帰り旅行に行ってきました。なぜ伊那方面なのかというと,そこは漂泊の俳人井上井月の最終的な安住の地であり,そのお墓や句碑がたくさんあるからです。井月は「せいげつ」と読みます。その当時井月が見たであろう山々や自然を自分の目でも確かめたかったのです。それと伊那の名物,ソースカツ丼もお目当てでした(笑)。

 

 中央道の伊那ICを降りる頃にはもう既にお昼近くになっておりましたから,衆議一決,まずは腹ごしらえということになりました(笑)。お目当てのお店はお客さんがいっぱいでしたのでそこをあきらめ,少しさまよってから何となく良さげなお店に入りました。私とカミさんは当然にソースカツ丼を注文し,娘のあかねちゃんは熟慮に熟慮を重ね,迷いに迷った末に,これまた地元の名物料理であるソースローメンを注文しました(少し太い麺の焼きそばのようなもの)。いずれも注文の食事に満足し,次に井上井月の句碑めぐりをしました。

 

 まずは,井上井月のお墓参り。ただ本当のお墓は塩原本家の敷地内にあるそうで,私たちがお参りしたのは卵形の割と小さな自然石のものでした。この石は,井月没後10年の明治30年に,塩原折治(俳号梅関)が三峰川から拾ってきた卵形の赤御影の自然石に「降るとまで 人には見せて 花曇」(井月の代表的な名句の一つ)を刻み,塩原家の墓地内に供養句碑として設置したものです。やがてこの句碑は昭和年代に入って刻んだ文字が風化して消えてしまったのですが,人々は今でもこれを井月の墓としてお参りに来ます。種田山頭火もこれを井月のお墓として参ったそうです。私たちもお参りしました。

 

 次に向かったのは,六道原です。ここにも句碑があるのです。しかし私たちはこの句碑をなかなか見つけられずにいたところ,カミさんが目ざとく「あれじゃないかな?」と見つけてくれました。そこには,井月の句碑と,その横に彼に私淑し,敬慕していた種田山頭火の句碑が並んでいました。刻まれていた井月の句は「出来揃ふ 田畑の色や 秋の月」で,山頭火の句は「なるほど 信濃の月が 出てゐる」でした。私たちがこれらの句碑を眺め,次の場所に移動しようとして車に乗り込みましたら,これらの句碑のすぐ近くに住む一人の品のよいご老人が私に話しかけてくれたのです。私はその方と井月について少しの間立ち話をしました。この方は,遠路はるばる井月が漂泊した伊那,そしてその句碑などを訪ねて来た私たちのような存在が嬉しいご様子でした。よくよく話を伺ってみると,この方は,何と,何と,井上井月顕彰会の会長をしておられる堀内功さんだったのです。光栄なことです。話がはずんでしまいました(笑)。

 

 そしてそこを辞去した後,堀内会長から道順を教えて貰った六道堤の井月の見事な句碑に向かったのです。大きな池の周りの堤にあるその句碑の句は,あの有名な「何処やらに 寉の声聞く 霞かな」でした。感無量です。そして桜の頃は本当に美しい景色でしょう。井月が数十年にわたる全国的な漂泊の旅の後,この伊那を最終的な安住の地に定めた気持ちの一端に触れたような気がしました。

 

 「落栗の 座を定めるや 窪溜まり」

2011年05月06日

ねがはくは・・・

 

 私の朝の徒歩通勤の経路(その日その日の気分で適当に変えます)には,いくつか見事な桜を堪能できる場所があります。でも,もうどの場所の桜も葉桜になってしまいました。あれだけ美しかった桜の姿がもうないのですから,少し寂しい気がします。仕方ありませんね。桜というのはその固有の美しさに加えて,自然の呼び声に応じていつでもこの世を去る覚悟,散り際の潔さもその魅力の一つなんですから。

 

 桜前線は少しずつ北へ向かっておりますから,不幸にして被災された方々を少しでも癒し,勇気を与えてくれる桜の姿も少しずつ北上していくことでしょう。ニュースによれば,福島市内の避難所に身を寄せている被災者の方々も,桜の名所である同市内の花見山公園を訪れ,その見事な桜の姿を見て「来てよかった。」と心を和ませたということです。

 

 さて,人間はいつか必ずこの世を去る訳です。もちろん私もいつか必ず死を迎えるのですが,季節としてはいつになるか。できれば私も西行法師が詠んだように,どうせ死ぬなら春の桜の季節がいいかなと思います。

 

「ねがはくは 花のもとにて 春死なむ そのきさらぎの 望月の頃」 西行

 

 西行法師は旧暦2月16日に亡くなったということです。新暦ならばさしずめ3月29日辺りでしょうか。正に桜の季節です。また,今私がその俳句や生き様に興味をもっている漂泊の俳人井上井月も,西行法師や松尾芭蕉を敬愛,敬慕していたようですが,西行忌(旧暦2月16日)を迎えるにあたり,次のような俳句を作っております。

 

「今日ばかり 花も時雨よ 西行忌」 井月

 

 西行が望んで止まなかった桜の花がしぐれるほどに降れ。井月は天にそう命じているのでしょう(「井上井月伝説」197頁,江宮隆之著,河出書房新社)。そして本当に不思議というか,偶然なんでしょうが,井上井月の命日も西行と同じ旧暦2月16日なのです。

2011年04月20日

落栗の・・・

 

 「落栗の 座を定めるや 窪溜まり」

 

 井上井月という江戸末期の俳人については,これまでこのブログでも二度ほど取り上げたことがあります。何しろあの種田山頭火が心から敬愛し,慕っていた俳人ですから。

 

 この井上井月という俳人は,何となく私も好きなのです。井月の出自については定かでないことが多いのですが,有力な説によると,この人は長岡藩士であり,武術に優れていたし,何しろ学問もでき,高い教養を有していたとのことです。そして,彼は愛する妻や娘を故郷(長岡)に置いて江戸で仕事に励んでいた訳ですが,1844年(弘化元年)の上越大地震で,不幸にも,妻,娘,養父母を亡くしてしまいました。どれほどの精神的打撃だったでしょうか。大切な人の死に直面し,それがきっかけで行雲流水の生活に身を置く人は少なくありません。彼も敬愛する松尾芭蕉のような句を求めて漂泊の旅に出てしまいます。

 

 結局,井月は,信州の伊那谷に行き着き,そこで約30年以上も漂泊し,高く評価され味わい深い句を作り続けたのです。冒頭の句などは,枝から落ちた栗がころころころがって,ようやく窪みの所でおさまり,漂泊の旅の末に終の場所として伊那谷に落ち着いた,安堵の心境を反映しているかのようです。

 

 地震で死んでしまった愛する娘が,彼が与えた土雛を握ったままであったことを知って,彼は慟哭したそうです。

 

「遣(や)るあてもなき 雛買ひぬ 二日月」

 

 山頭火がいかに井月を慕っていたのかは,彼が西国から遠路はるばる伊那谷にある井月の墓を二度にわたって訪れたことからも分かります。このうちの一度は近くまで来たのに病気で墓参りは断念しています。山頭火がようやく二度目で念願の井月の墓参りができた時に詠んだ句の一つは,

 

「お墓撫でさすりつつ、はるばるまゐりました」

 

 また,井月の辞世の句として伝えられているのは,

 

「何処やらに 鶴の声聞く 霞かな」(絶筆)

 

 少し時間ができたら,井月に関する本でも読んでみたいと思っています。何かしら興味があるのです。手始めに,「井上井月伝説」(江宮隆之著,河出書房新社)からにしようか。

2011年03月23日

ようやく春めく

 

 ゆっくり徒歩で通勤していると,さすがに肌に感じる風が春めいてきたことに気づく。事務所までの経路のうち,シーズンになればそれはそれは見事な桜を咲かせる木々の集まった場所があるが,その枝々は何となくではあるがふっくらしてきたように見えるし,今にも蕾を出しそうな風情でもある。

 

 雲水,漂泊の俳人種田山頭火が作った次の句は,おそらく今頃の季節の作であろう。

 

「ゆらいで梢もふくらんできたやうな」

 

 きのう,3月6日は山頭火のお母さんの命日だそうだ。昭和13年3月6日,山頭火はそのお母さんの47回忌に次のような句を作っている。

 

「うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする」

 

 山頭火の母は不幸にも自宅の深井戸に身を投げて自殺し,この時山頭火は満9歳と4か月の幼少であった。それ以来,母を思慕して歩む人生で,現世にあっての遊蕩も,世を捨てての放浪行乞も,その根っこのところでは母の自殺が因を成しているとの指摘もある(「山頭火名句鑑賞」234頁,村上護著,春陽堂)。

 

 山頭火が春に作ったと思われる境涯俳句風のものに,次のようなものがある。

 

「かうして生きてはゐる木の芽や草の芽や」

 

 そして,やはり彼が春に作ったと思われる少し楽しげな句は,

 

「何が何やらみんな咲いてゐる」

2011年03月07日

雨月物語

 

 自分の読書傾向はかなり偏っているとは思うが,それでもいつも心の中には日本の古典への憧れがある。万葉集,梁塵秘抄,方丈記,平家物語,徒然草などなど。方丈記や徒然草などはボリューム的に手頃だったので既に味わったが,いずれ万葉集や梁塵秘抄,平家物語などはじっくりと読んでみたいと思っている。

 

 日本の古典の中で,これまで漠然とではあるが一度読んでみたいと思い続けていたものに上田秋成の「雨月物語」があった。何でこの作品に興味を抱き続けてきたのかは分からないが,雨も好きだし,月も好きだし,タイトルが何ともしっとりとしていて日本的だし,江戸期の怪異文学の傑作という触れ込みに惹かれ,怖いもの見たさというのもあったかもしれない。そんな訳で,このたび,ちくま学芸文庫の「訳注日本の古典」シリーズ中に高田衛・稲田篤信校注の良い本を書店で見つけたので,読んでみた。

 

 上田秋成の雨月物語は次のような構成になっており,全部で九つの怪異談の集まりである。


巻之一 「白峰」 「菊花の約」
巻之二 「浅茅が宿」 「夢応の鯉魚」
巻之三 「仏法僧」 「吉備津の釜」
巻之四 「蛇性の婬」
巻之五 「青頭巾」 「貧福論」

 

 「白峰」における崇徳上皇と西行の行き詰まるやり取り,「菊花の約」における赤穴宗右衛門の至誠と霊の不可思議,「夢応の鯉魚」における鯉の遊泳の際の美しすぎるほどの描写(三島由紀夫も絶賛),「仏法僧」や「蛇性の婬」における人性,獣性の情念の凄絶さ・・・。

 

 怪異文学としては非常に完成度が高いし,改めて日本の古典の素晴らしさを認識させてくれる。雨月物語における「雨」と「月」の言葉の意味については学者の間で深い分析がなされているが,雨月物語の序の部分で作者の上田秋成が書いているのは,「雨が上がって晴れ,おぼろ月夜の晩にこれを書き上げたから『雨月物語』と名付けた」とのこと。ほんと,風情があっていいねえ(笑)。

2011年03月01日

当てが外れたでござる

 

 私は新選組に関する読み物が結構好きです。古くは,子母澤寛のいわゆる新選組三部作「新選組始末記」,「新選組遺聞」,「新選組物語」などは読破しておりますし,そのほか,新選組を題材にした歴史小説なども読んだことがあります。

 

 作家の浅田次郎氏も新選組を題材にした著作があり,「壬生義士伝」は素晴らしかった。これを読んでいる最中に不覚にも何度も泣いてしまったこともありました。恥ずかしながら嗚咽してしまったこともあったほどです(笑)。でも,この「壬生義士伝」を読んでいて同じような失態を演じてしまった人を私はもう一人知っております。それくらい感動的な小説でした。私がこの「壬生義士伝」を読んだのは,ちょうど大所帯の法律事務所から独立しようとしていた頃で,これからは自分の知恵と甲斐性と責任で生活の糧を得,愛する妻子を守っていかなければならない立場の自分を,主人公である吉村貫一郎の懸命な姿に重なり合わせてしまったのでしょう。

 

 浅田次郎氏がその次に新選組を題材にして世に送り出した作品が「輪違屋糸里」でした。再び「泣かせて欲しい」と思っていた私は,早速この本を買い求めて読んだのですが,残念ながらこれについては全く泣けませんでした。はっきり言って感動もそれほどは・・・。

 

 そうこうしているうちに,浅田次郎氏の最新作「一刀斎夢録」が登場しました。私としては,「壬生義士伝」の時のように泣かせて欲しいと思っておりましたし,何よりもこの本の宣伝の中に「慟哭必至」なんていう文句もありましたから,かなり期待して飛びついて読み始めたのです。でも残念ながら,「泣く」という目的からすると見事に当てが外れたのでござる(笑)。新選組の小姓で不遇の生い立ちであった市村鉄之助が,実家と宿世の縁を切りたかった斎藤一の気持ちを忖度する場面,死を覚悟した土方歳三が市村鉄之助の命を助けるために,彼に自分の遺品となるもの(写真と愛刀)を持たせて,土方の故郷の佐藤彦五郎宅に遣った場面は,確かにじーんときましたし,目頭が熱くなりましたが,「壬生義士伝」の時のような嗚咽には至りませんでした(笑)。確かに浅田氏の取材力と表現力には素晴らしいものがあります。しかし,斎藤一という隊士は新選組の中でもナゾに包まれている部分が多く,薩摩藩の中村半次郎(後の桐野利秋)のように「人斬り」のイメージは確かにあるのですが,ここまで鬼畜のような人間として扱ってしまうのには違和感がありますし,戦場で偶然にも再会した市村鉄之助に斬ってもらいたいという思惑だったのに,逆に彼を斬ってしまったという大団円は「何かなー」という気がするのです。史実だったのならば仕方ありませんが。どこかに泣ける本はありませんかねぇ・・・。

 

 このようにして,この本はほとんど泣くことができず,当てが外れたのでござるが(笑),サッカー日本代表のアジアカップ制覇は,誠にあっぱれでござるよ。


 

2011年02月01日

山頭火の秋

 

 日本の第二次高度経済成長期の終わり頃,すなわち昭和40年頃に種田山頭火ブームがわき起こったようだ。山頭火は行乞の,そして漂泊の自由律俳人である。なぜその頃にブームが起こったのだろうか。その頃は私も小学校低学年。お父さんたちが一生懸命に働いていた。仕事に疲れてふっと思い起こすのはふるさとの風景,日本の原風景であり,自由に旅する自分の姿なのではなかったか。その当時の現代人のあこがれの一つだったのだと思う。

 

 前にもこのブログで書いたことがあるが,私は何となくこの俳人の句と生き様に関心が向くのである。その理由ははっきりとは表現できない。厳しい行乞の旅を続けていた山頭火の心の中はどんなものだったのだろう・・・。山頭火が残した文章に次のようなものがある。

 

「生死の底からホンタウの『あきらめ』が湧いてくる。その『あきらめ』の中から、広い温かいそして強い力が生まれてくる。人生の矛盾として慈しみ育てよ。真摯と狂気とは隣り合っている。・・・一日の生活は永遠の疑問に対するその一日だけの解決である。生きたくもなくまた死にたくもないといふ心と、生きたくもありまた死にたくもあるといふ心と、どちらが真実の心であらうか。・・・生のアンニュイは近代病-殊に悪性の近代病の一種である。人生を表象すれば、最初に涙、次に拳、冷笑、最後に欠伸である。」

 

 私がけっこう好きな山頭火の秋の句

 

「落葉うづたかく御仏ゐます」
「曼珠沙華咲いてここが私の寝るところ」
「ふくろうはふくろうで私は私で眠れない」
「つかれた脚へとんぼとまつた」
「いつも一人で赤とんぼ」
「だまって今日のわらじ履く」(秋の句かどうかはわからない)

2010年10月26日

慟哭が聞こえる

 

 「墓標なき草原(上・下)-内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録」(楊海英著,岩波書店)という本を読んだ。昨晩読み終えたのだが,今でも得体の知れない心の動揺がある。この本の内容は,そのサブタイトルが示すとおりであって,内モンゴル自治区における被害者及びその遺族の慟哭が聞こえる。

 

 この本は,著者自身の実際の体験だけでなく,むしろその内容の中心となるのは内モンゴル自治区に出向いて歴史の生き証人にインタビューして得た貴重な証言である。これは決してプロパガンダなどではなく,歴史の真実なのであろう。実際にその生き証人が見聞きしていなければ表現できないような具体性と迫真性をもっている。

 

 中国共産党による文化大革命とは一体何だったのか,とりわけ内モンゴル自治区におけるそれは何だったのか。この本の終わりにある「視座 ジェノサイドとしての中国文化大革命」や「おわりに」の箇所に要領よくまとめてある総括部分が圧巻であるし,非常に説得力がある。平成16年7月に中国で開催されたサッカーアジアカップにおける日本人及び君が代に対するブーイング,食料やペットボトルの投げつけ,暴言,平成17年4月の北京における反日暴動で日本大使館の窓ガラスが割られたり,日本料理店が襲撃された事件,平成20年に長野・善光寺一帯を埋め尽くした中国人による威圧と乱暴,これらの事件を見聞きするにつけても,そこに「造反有理」を叫んだ文化大革命の紅衛兵の亡霊を見るのである。

 

 この本は岩波書店から出版されているが,これは少し意外だった。いずれにしても,この本は一読に値するし,強くお勧めしたい。

2010年07月05日

こういう世界もあったのか・・・

 

 わが栄光の読売巨人軍のセパ交流戦での成績は12勝12敗という成績で,貯金することすらできなかった。残念ではあるが,これからは気持ちを切り替えて,セ・リーグ4連覇を目指して頑張ってほしい。

 

 その読売新聞の書評記事で見つけた本に,「『死の舞踏』への旅-踊る骸骨たちをたずねて」(小池寿子著,中央公論新社)がある。朝食後にボサーッとしながら書評を読んでいくうちに何やら興味をおぼえ,実際にこの本を読んでみたいと思っちゃったのである。

 

 ヨーロッパでは,15世紀以降,「死の舞踏」(ダンス・マカーブル)の壁画があちこちで造られるようになり,その後は壁画だけでなく木版画としても表現されるようになった。「死の舞踏」の絵図というのは,死者(骸骨)と生者とが交互に配置され,死者が生者の手をとって墓場まで誘うという状況を表したものである。不気味な感じもするし,死者(骸骨)は足を跳ね上げて踊っているようにも見えるユーモラスな面もある。筆者はこの「死の舞踏」の壁画の存在やその意味を研究素材の一つとする学者であり,さきに挙げた本は約1年間にわたる「遊学」と「死の舞踏」の壁画等が点在する各地を実際に旅した成果を記したものである。この本の序章には次のようなくだりがある。

 

 「暮れなずむヨーロッパ中世に影を落とす生者と死者の舞踏行列。骨と化し、あるいは、内臓や皮膚を残す干からびた死者たちが、身分の貴賤、老若男女を問わず、生きている者たちの手をとって墓場へと誘う。生者たちは、さまざまなポーズをとりながら、過ぎ去りし人生をふり返っては嘆き悲しみ、また、いとおしむ。死者たちはささやく。いくら生を謳歌しても、人はいつか死にゆくもの。それが定めというものさ。」(3頁)。

 

 この不気味な「死の舞踏」の壁画などが各地で造られた背景として筆者が指摘するのは,「死体や墓を前に死について思いをめぐらせることを勧め、現世での傲慢をいさめて生のむなしさを説くという説教とその思想は、黒死病をはじめとする疫病や飢饉、戦争の支配した中世後期に、死の舞踏を頂点とする死のテーマやその美術を生み出す土壌となった」という点である(114頁)。当初成立時期としては「死の舞踏」よりも古い「三人の死者と三人の生者」の壁画などについても,このような思想的背景があったとも指摘されている。

 

 この本には,表紙のカバーを含めて実際の「死の舞踏」の壁画などの写真がちりばめられている。どれもこれも興味深いものばかりである。こういう世界,こういう研究対象もあるのだなあと感心した。それにしても,「死の舞踏」の壁画などを見た時,不気味な感じがするというよりは,何かしら共感や癒しを覚えてしまうのである。それはなぜかというと,恐らく筆者が指摘するように,「死の舞踏は、むしろ、死すべき生をよりよく完結させるためのステップを、死者が生者に教えるという趣向なのである。・・・つまり、死の舞踏には、死すべき生をいかに成就するかという、いわば積極的な姿勢が見られる」からであろう(116頁)。

 

 ・・・何やら薄気味悪い世界なのかもしれないが,この本は一読に値する。

2010年06月14日

万葉集

 

 自分の年のせいなのか,それともなにがしかの僅かばかりの知的集積がさらなる知的好奇心を醸成したのかは分からないが,日本の古来からの文化に対する憧れが高まっている。万葉集というのは,小学生でも知っている存在だと思うが,実は僕はこの年になるまで万葉集に関する書籍を読んだことがなかった。

 

 そこで何か手始めに良い本はないかと思っていたところ,「万葉の花」(片岡寧豊著,青幻舎)という本に出会った。この本は,春夏秋冬,万葉集の歌の中に出てくる四季折々の花を季節別に取り上げ,写真入りで解説し,その花ごとに必ず一つの歌を取り上げている。例えば春の花のアセビについて述べると,分類上はツツジ科で,万葉名はあしび。植物の分類やその特性,外観に言及され,写真で実際にその姿を見ることができるし,花の名前の語源まで解説されている。アセビに関する歌の一つとして次のような歌が紹介され,訳(大意)まで記されている(10頁)。

 

 「磯の上に 生ふるあしびを 手折らめど 見すべき君が ありといはなくに」
  (大伯皇女(おほくのひめみこ),巻二-一六六)

 

 「岩のほとりに生えているアセビを手折りたいけれど,それを見せるべきあなたがこの世にいるわけではないのに」(大意)

 

 この本は,万葉集の時代の生活振り,その歌が詠まれた背景などについても解説されているし,その一方で植物図鑑のようでもある。万葉集の世界にさらに興味をもった。万葉集というのは7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた,日本に現存する最古の和歌集で,その成立は759年以降のようである。それにしても思うのは,日本人というのは,自然を愛で慈しみ,花などの有り様を見て四季の移り変わりを感じ,自然に触れてはその都度心を動かされる繊細で優しい,内省的な民族性を有しているということである。

2010年05月31日

相当に読みごたえがあった本(続々)

 

 またまたくどいようであるが,「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(若泉敬著,文藝春秋)という本の続きである。このお話は今日で終わり(笑)。昨日僕は,著者の若泉敬は無私な愛国者だったのだろうなという正直な感想を述べた。その具体的な理由については,本書を読めばその内容で十分に分かると思う。また,若泉敬は,京都産業大学に招聘されて長年にわたって教鞭をとり,国際政治学者として活躍したのだが,平成4年に同大学を退職した際に支給された退職金全額を,同大学の世界問題研究所に寄付している。一部の官僚が天下りを重ねて「渡り」をし,その退職の都度数千万円もの退職金を手にしているのとは雲泥の差である。また若泉敬は,初出の「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」の発刊に当たり,著作権使用料にあたる額を「沖縄戦で犠牲となられた関係者の方方の鎮魂と,ご遺族のために,ささやかなりともお役に立てたい」と希望し,出版元の文藝春秋は同氏の意志を尊重して,その手続をとったということである。

 

 この本の末尾の「新装版に寄せて」という一文を書いた外交ジャーナリストの手嶋龍一氏の話(同書631頁)やその他の情報によれば,結局,若泉敬は,この本を出した2年後に,毒杯をあおって自裁(自殺)し,この世を去った。この本は自分の死を視野に収めて書き継がれ,彼は,国家機密を公にした結果責任をとって,本書の刊行後に沖縄の鎮魂碑前で命を絶つ覚悟だったようだ。最終的には本書発刊の2年後である平成8年に彼はこの覚悟を現実のものにしたのである。

 

 本書においては,若泉敬は随所に説得力のある文献,文章の引用をしているが,現在の日本及び日本人が置かれている状況,いわば退廃的な状況について,若泉敬もそれを痛感し,僕も胸を打たれた文章があった。正にそのとおりだという文章が・・・。それは論客福田恆存氏の次のような主張,文章である(本書565頁,旧字は訂正してある。)。

 

 「今日、社会党も共産党も安保条約を目の敵にしておりますが、その様子を見ていると、いくら目の敵にしても安保体制はついに叩き割れぬ『硬い胡桃』だと思い込んでいるらしい。が、もしそうなら反安保闘争そのものが無意味だということになります。だが、私には安保体制はそれほど『硬い胡桃』だとは思えません。それが『硬い胡桃』だという前提には、アメリカがアメリカのために日本を軍事的に離さないだろうという独り合点、あるいは思い上りがあるからでしょうが、実際にそうでしょうか。軍事的にアメリカが日本を必要とする度合と日本がアメリカを必要とする度合と、その両者を比較した時、私は後者の方がはるかに大であると思います。もしそうなら、日本が本気で掛かれば安保体制はいずれは解消できましょう。しかも、それに代る軍事同盟が結ばれないとすれば、日本政府にとって最も恐るべき敵はアメリカだということになる。そういうことも考慮に入れながら反安保闘争をやっていただきたいものですが、私の見るかぎりでは、アメリカとの安保体制、あるいは軍事同盟がなくともアメリカは日本に友好的であらざるを得ないという心理が一般に働いているように思われます。戦後25年、アメリカの御厄介になってきたお蔭でしょうが、そうなると反米闘争もアメリカの傘の下で安心して行われているのかと言いたくなります。軍事的、政治的独立よりも、精神的独立の方が急務である所以です」

 

 鳩山首相さん,平和ボケ・思考停止・反日左翼のジャーナリストさん,同じくコメンテーターさん,精神的独立の方が急務なのではないでしょうか(笑)。

2010年05月21日

相当に読みごたえがあった本(続)

 

 さて,「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(若泉敬著,文藝春秋)という本の続きである。この本は600ページを超えており,内容だけでなく分量的にも相当に読みごたえがあった。そして,読み終えてつくづく思うのは,著者の若泉敬は無私な愛国者だったのだろうなという正直な感想である。

 

 当時の佐藤栄作首相の意向を受け,タフ・ネゴシエーターのキッシンジャー大統領補佐官を相手に,日本の国益のためにギリギリの交渉を行った。その結果としての悲願の沖縄返還の達成と,有事の際の核持ち込みの密約の存在があった。彼がこの本を出そうとした動機は究極的には真実を書き遺すということだろうと思うが,この本の末尾の「新装版に寄せて」という一文を書いた外交ジャーナリストの手嶋龍一氏の指摘のとおり,「いまこそ密約のすべてを明らかにし,主権国家が持つべき矜持を忘れ果てた日本に覚醒を促したい」という側面があったのではないかと思う。このことは,本書中の次のような文章からも窺える(616頁)。

 

 「このような試煉に立つ歴史の一大変容期に直面している今日、経済的には自他ともに認める〝大国〟と成り上った日本および日本人は、果たして〝日本の理念〟を普遍的な言葉と気概をもって世界に提示できるのであろうか。より根源的には、いかなる価値観を拠り所に波風荒い大洋への〝海図なき航海〟に乗り出さんとしているのであろうか。ここで敢えて私の一片の赤心を吐露させて頂くならば、敗戦後半世紀の日本は「戦後復興」の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果、変わることなき鎖国心理の中でいわば〝愚者の楽園〟と化し、精神的、道義的、文化的に〝根無し草〟に堕してしまったのではないだろうか。もしもそうだとするならば、このような〝悲しむべき零落〟から再起し、国際社会での生存要件たるそれ相応の信頼と尊敬を受けるために、今の日本と日本人に求められている内なる核心的課題とは一体何なのであろうか。一言にして言うならば、それは、ホイットマンの魂の琴線を揺さぶり、〝世界的日本人〟新渡戸が一世紀近く前に訴えた、あの〝真の武士道〟の伝統に深く念いをいたし、それを明日の行動の指針とすることではないだろうか。そこには、衣食足って礼節を知り、義、勇、仁、誠、忠、名誉、克己といった普遍的な徳目が時空を超えて静かな輝きを放ち続けている。その不滅の光芒の中に、私は、戦陣に散り戦火に斃れた尊い犠牲者たちが、彼らの祖国とその未来を担う同胞に希って止まない「再独立の完成」と「自由自尊の顕現」を観るのである。」

 (さらに続く)

2010年05月20日

相当に読みごたえがあった本

 

 このブログでも一,二度紹介したことがあったが,「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(若泉敬著,文藝春秋)という本は,相当に読みごたえがあった。外交,安全保障の在り方について本当に考えさせられたのである。

 

 この本の初出は,平成6年5月であるが,僕が読んだのはこの本の新装版で昨年10月に出版されたものである。この本の内容は,そのサブタイトルに「核密約の真実」とあるように,著者の若泉敬が沖縄返還交渉において佐藤栄作首相の特使として重要な役割を果たした際の,ホットラインでの行き詰まる交渉経過,核密約の内容と存在等についての真相を語ったものである。

 

 さる5月15日は,沖縄が本土復帰を果たして38年目の記念日であった。戦後,沖縄の本土復帰は民族的な悲願であったし,これに臨む佐藤栄作首相は不退転の決意であり,この民族的悲願達成のために沖縄返還交渉では苦悩を重ね,日本の外務省,アメリカの国務省のという正規ルートとは別に,若泉敬という特使を派遣して,時の大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーひいてはニクソン大統領と行き詰まる交渉を重ねていた。有事の際の核持ち込みの密約は,沖縄返還達成のための超法規的なやむを得ぬ措置であった。

 

 それにしても,本来の外交というのは,このようにホットラインで,日本のスタッフ(首相,外相,防衛省,官房長官ら)も一枚岩で,基本的には相手国との信頼関係を維持しながら時には懐疑をはさみながら,タフな交渉をしつつ自国の国益を守っていく尊い作業だということを痛感した。しかもその実効的な手法は,時には特使を介した首脳同士の膝詰め談判という形式であるべきこともある。現在日本においては,民主党政権という得体の知れない存在がうごめいており,岡田外相は核密約の存在を暴いて鬼の首を取ったようにしている。笑止である。そのようなものの存在はとうに公然の秘密となっていた。これを暴くこと自体に何の意味があるのだろうか。暴いた後,これをどうしようというのか。鳩山首相をはじめ,彼らに求められていることは,相手国から交渉の当事者としての適格性を認めてもらうことだ。現在の状況は,相手国(アメリカ)は,誰を交渉相手に,誰を信頼してよいのか皆目分からないという(笑),深刻で信じられない事態になっており,アメリカは心底あきれかえっていると思われる。それもそのはず,米軍海兵隊普天間基地移設問題について,民主党政権発足後は,首相の言っていることと外相の言っていることと防衛相の言っていることとが全く違っていた時期が長かったし,アメリカとしては困惑するしかなかった。当然である。鳩山首相は,韓流スターを公邸に招いて食事したり,首を前後させてハトのまねをしているようなヒマがあるのだったら,この「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」という本でも読んで外交や安全保障の在り方の勉強するとよい(続く)。

2010年05月19日

読書の楽しみ

 

 僕ももう弁護士16年目の春を迎えた。経験を積むうちに,事件処理の手法を身につけたり,事件の大体の見通しは立つようになった。でも,最近では何だか実体法(例えば民法,刑法,商法など)や手続法(例えば民事訴訟法,刑事訴訟法など)の知識をもう一度確かなものにしなければと反省している。司法試験受験生の時に勉強したように,もう一度これらの法律に関する基本書を読んで勉強したいという気持が強くなりつつあるのである。

 

 ただそうは言っても,実際の休日の過ごし方というと,事務所に出て来て仕事をせざるを得なかったり,ゴルフで気晴らししたり,好きな本を読んだりで,なかなか法律の基本書を読んでの勉強には至らないのが実情である。この週末の読書といえば,「毛沢東の文革大虐殺」(宗永毅編,松田州二訳,原書房)という本を読破した。約380ページに及ぶ本であるが,あっという間に読み終えてしまった。この本の訳者の日本語はとても正確で,読み易かった。外国人の著作については,何よりも翻訳が重要であるということを改めて痛感した。

 

 この本は,中国の各地方政府の調査報告書や資料だけでなく,各筆者自身が実際に文化大革命を経験した生存者へのインタビューなどに基づいて著作されたものであり,正に史実そのものであろう。文化大革命というのは,プロレタリア文化大革命ともよばれ,ウィキペディアによると,名目はともかくとして「中国共産党指導部内における修正主義の伸長に危機感を抱いた毛沢東らによる,暴力的行為を伴った大規模な権力闘争と評価されている。政治・経済・思想・文化の全般にわたる改革運動のはずであったが,実際には全国の人民を巻き込んだ粛清運動として展開され,数千万人の犠牲者を出したほか,国内の主要な文化の破壊と経済活動の長期停滞をもたらす惨事となった。」とされているものである。修正主義というのは,その当時の劉少奇らの考え方のことを述べているのであろうが,いわゆる大躍進政策で農民らが約4000万人も餓死などにより死亡した無謀な政策を改めるように建言した劉少奇らの方が正当なのであろう。毛沢東率いる中国共産党は,延安整風運動,反右派闘争,この文化大革命と粛清の嵐の連続である。

 

 この「毛沢東の文革大虐殺」(宗永毅編,松田州二訳,原書房)という本では,文化大革命の最前線の具体的な状況がよく理解できるよう記述されている。一方,同時期における中国共産党中央の権力闘争の状況は,「マオ-誰も知らなかった毛沢東(上・下)」(ユン・チアン,ジョン・ハリディ著,土屋京子訳,講談社),「周恩来秘録 上・下」(高文謙著,上村幸治訳,文藝春秋)などを読むと詳しく理解できる。大躍進政策による未曾有の数の犠牲者だけでなく,文化大革命によるこの途方もない数の犠牲者の存在を知るにつけ,現在も天安門に毛沢東の肖像画が飾られ,人民元の肖像画もこの元指導者であることに相当の違和感,いや恐怖感さえ覚えてしまう。

 

 わが国の一万円札の肖像画は,明治時代のオピニオンリーダーであり,「脱亜論」を唱えていた福沢諭吉先生である。

2010年04月19日

雨降りに

 

 月曜日の晩に仕事を終え,次の会合に向かう道すがら,傘を差しながらずっと立っているタクシー運転手の存在に気づいた。土砂降りとまではいかないけど,相当に強い雨の中,車外で立ったままじっとタクシーの用命を待っているのである。このタクシー会社はもちろん流しもしているけど,コインパークの一番端の駐車場の一区画を借り,このように流しではなくてタクシーの用命を待つ営業スタイルも展開しているようである。

 

 傘を差していたとしても強い雨に打たれながらじっと立って待っているタクシー運転手の姿を見て,何か感動した。彼に妻子があるのかどうかは知らないが,一生懸命に働いて家族を守っているように思われたのである。どういう訳かその時に思い浮かんだのは,新選組隊士(諸士取扱役兼監察方,撃剣師範)だった吉村貫一郎のことと,彼を主人公として描いた浅田次郎の「壬生義士伝」(文春文庫)という小説のことである。

 

 この本の裏表紙には「浅田文学の金字塔」と銘打ってあるが,かつてこの本を読んだ後は本当に感動した。たまたまこの本を読んで間もない時期に,以前僕と一緒に仕事をしていた裁判所職員と,ある送別会で話す機会があり,たまたまこの本のことが話題になった。彼も数度その本を読み,その都度涙を流したそうだ。僕は一回しか読んでいないが,読んでいる最中に涙が出て来たことがあった。

 

 吉村貫一郎は南部藩の下級武士であったが,どうにもこうにも生活に困窮し,妻と可愛い子らを養うために,万やむを得ず脱藩して新選組に入り,お給金などを京都から故郷(盛岡)の妻子の元へ仕送りしていた。新選組にいれば,いつ命を落とすか分からないが,いわば出稼ぎをして必死で家族を守っていたのである。学問はあるし,剣術も沖田総司,永倉新八,斉藤一らと互角に渡り合えるほどの腕前(北辰一刀流)であった。本当に強い男であったのだ。妻子があるなら,妻子を守ってなんぼである。これも武士道。

2010年03月17日

律儀

 

 長野県伊那方面にとても律儀な方がおられる。かつてこの方の事件依頼を受け,代理人として交渉などをし,数年前に無事解決となった。事件の内容はもちろん言えないが,内容的にはこの方にとっても望外の喜びだったろう。ただ,事件終了後の弁護士報酬は7~8回の分割払いとさせていただいた。その分割払いが半分くらい終わったある日,この方から「申し訳ありませんが,支払を1か月遅らせてもらえませんでしょうか。」という丁寧な電話連絡があった。

 

 この方も比較的高齢で経済的には余裕のある方ではなく,しかもこのような丁寧な電話連絡。僕はとてもうれしくも恐縮し,言葉に気を遣いつつも丁寧に以後の支払を免除させていただきたい旨を申し上げた。この方は再三にわたってそのような措置を固辞されたものの,僕の方から何とかそのようにしてもらった。それからである,この方からは毎年冬になると,美味しい日本酒が当事務所に贈られてくるようになったのである。僕としては,申し訳ない,もう十分にお気持ちはいただきましたから,などと言いながらもお言葉に甘えていた。

 

 そうしていたところ,先日,この方から僕あてに近況報告などの電話があり,「ここ数か月体調を崩して寝込んでおり,申し訳ありませんが今年はお酒をお贈りすることができないのです。」とのこと。何と律儀な方なのであろうか。こういう方がおられることがうれしかった。もう,お気持ちだけで十分である。

 

 さて,伊那と酒といえば,前にもこのブログで一度触れたが,井上井月という放浪の俳人である。彼は江戸後期から明治中期にかけて活躍し,伊那方面を約三十年間にわたって漂泊,放浪しつつ句を残した。種田山頭火はこの井上井月のことを心から慕い,一度故郷の山口からはるばる伊那へ行乞しつつ,井月の墓参りを試みたが,あと一歩というところで肺炎を患い,墓参りを断念している。でも山頭火の井月に対する思慕の念は絶ちがたく,その四年後に再び故郷の山口からはるばる伊那を訪れ,ようやく墓参りを果たす。その時,山頭火は井月の墓を前にして四つの句を残している。

 

 「お墓したしくお酒をそゝぐ」
 「お墓撫でさすりつゝ、はるばるまゐりました」
 「駒ヶ根をまへにいつもひとりでしたね」
 「供へるものとては、野の木瓜の二枝三枝」

 

 本当に山頭火というのは自由律で素直な感情を表現したのだなと思うし,このような句に接するにつけても,井月に対する思慕,敬愛の念が強かったことを改めて感じる。

2010年01月07日

愛娘に来た年賀状の山の高さが僕のそれと遜色ない件


         
 皆様,新年あけましておめでとうございます。月並みではありますが,本年もどうぞよろしくお願いいたします。・・・おっと,このブログに対し,多くの皆様からの割れんばかりの暖かい拍手とご声援をいただき,私としても気も狂わんばかりに喜んでおります(笑)。さてと・・・・,今年はどんな年になりますか。大晦日には「あぁ,良い年だったなぁ。」と振り返ることのできる年でありますように。お互いにねっ!

 

 年末年始は,大晦日と元旦に実家で過ごした以外は,自宅での読書三昧であった。前から読みたいと思っていた若狹和朋氏が書いた「日本人が知ってはならない歴史」,「続・日本人が知ってはならない歴史」,「日本人が知ってはならない歴史・戦後編」の3部作(朱鳥社)を全部読んでしまった。これは日本人なら一度は読んでおいた方が良いと思う。「知ってはならない」というのは逆説的な表現で,「知っておかなければならない」というほどの意味である。箇所によっては著者が本当に読者を意識しているのかと思うほど,独特の言い回しでどんどん論を進めていって多少読みにくさを感ずる部分もあるが,日本の近現代史の歴史認識に関し,「目からウロコ」が落ちる部分が多い。控えめな表現を使っても「必読」であろう。キーワードとして残っているのは,マルクス主義のフランクフルト学派,コミンテルン,エージェントとなったユダヤ人の世界認識,ロボトミー手術,東京裁判の欺瞞性などである。政治的なプロパガンダではなく,あくまでも史実に基づく正しい歴史認識はとても重要だと思う。この本の中で特に印象に残った言葉は,歴史を失うということは将来を失うという言葉である。批判を承知で敢えて言うが,少なくとももうそろそろ東京裁判史観のみの認識からは脱却しなければならないと思う。そうでなければ誇りをもってこの国を守っていくことができない。

 

 この3部作はいずれも必読なのではあるが,特に3作目の「日本人が知ってはならない歴史・戦後編」の第1章「昭和陛下の墓参り」の中の「祭文」を読んでいて,恥ずかしながら思わず大粒の涙がこぼれてしまった。

 

 さて,大粒の涙で眸を洗われた後に僕が目にしたものは,高校1年生の愛娘あてに来た年賀状の山の高さが,僕のそれと遜色ないという厳然たる事実であった。愛娘というのは,あかねちゃんといい,当事務所の名前の由来ともなっている。一句ひねれば,


   「幾星霜 愛子(まなご)の賀状 そびえ立つ」


(大意)
 (もう私もずいぶん年をとってしまったものだ。髪には霜のように白いものがまじり,それがはっきりわかるようになってしまった。愛する娘あてに来た年賀状が机に積まれているが,その山の高いこと。私あてに来た年賀状の山の高さと遜色ないまでになっている。ついこの間まで,ハイハイしながら私の所に寄って,片言の言葉で何かをせがんでいた赤ちゃんだったのに。もう一人前に人脈を築き上げ,級友などから私あてと同じくらいの数の年賀状をもらうようになっている。このようにして世代の交代をむかえるのだなあ。)

 

 あー,恥ずかしい。「幾星霜」なんて季語にはなってないんじゃないか(笑)。

2010年01月05日

行雲流水

 

 仕事は忙しいけれど,自宅にいる時くらいはできるだけ本を読みたい。早く読みたいなと思っているけど,書店でなかなか手に入らない本がある。若狭和朋という人が書いた「日本人が知ってはならない歴史」という本で,正編と続編があるそうだ(それに,戦後編も出て3部作になっている。)。早く読もうといくつかの書店へ行き,店内の検索サービスで調べても「品切れ中」,「在庫なし」という表示が出てしまうのだ。いっそのことアマゾンか何かで通販で買おうか。

 

 この本が読みたいと思ったのは,ネットの書評で好評だったこともあるが,作者の若狭和朋という人の経歴中に,大学を出て通産省の官僚になったにもかかわらず,間もなくこれを辞めて「4か月ほど雲水になった」という趣旨のことが書いてあったからだ。雲水というのは,行雲流水の略で,空を行く雲と流れる水,物事に執着せず,淡々として自然の成り行きに任せて行動することのたとえである。要するに4か月ほどの間,全国をあてどもなく漂泊したということである。彼をしてそのようにさせたのは,新婚生活僅か約4か月で最愛の伴侶を事故で亡くしたという冷厳たる事実だったようである。

 

 雲水と言えば,非定型俳句の尾崎放哉のことも想い出される。「咳をしても 一人」という句に出会った時の衝撃も忘れられない。彼も,東京帝国大学法科を出て普通の会社に入って仕事をしていながら,結局は退職し,いわば諸縁を放下する形で雲水になった。そういえば,このブログでもたびたび登場する漂泊の俳人種田山頭火も雲水の生活であろう。このような雲水の心境,生活に漠然とした憧れをもつこともある。少し前に「新 脱亜論」(文春新書)という本を読んだが,その著者である渡辺利夫(拓殖大学学長)も自己の専門分野とは全く畑違いの「種田山頭火の死生-ほろほろほろびゆく」(文春新書)という本も書いている。誰でも,このような雲水の心境,生活に漠然とした憧れをもつことがあるのだろうか。

2009年12月15日

一大スペクタクル巨編

 

 とうとう待ちに待ったドラマ「坂の上の雲」が始まった。NHKで,2011年の秋にかけて3年がかりの全13話ということらしい。この「坂の上の雲」という小説は,司馬遼太郎原作の巨編であり,これまでの発行部数が1800万部を超えたという。日本の人口を考えると,この発行部数は凄い数であろう。

 

 文春文庫から全8冊(第1巻~第8巻)の文庫版が出ていて,僕も読んだことがある。何とも言えない読後感であった。感動したこともちろんである。明治の人々の気骨と無私の精神,失われてはいけない日本人の特性を認識できたし,今後自分の人生で遭遇するであろう個々の局面でどのように考え,行動すべきかについての規準を示してくれる。少なくともヒントを与えてくれると思う。よく,識者に対するアンケートで「この一冊」というものがあるが,この本を挙げる人も結構いる。

 

 この小説は,秋山好古,真之兄弟,正岡子規の3人を中心に話が展開していくが,これらに限らず,途方もなく魅力的な明治人が次々に登場する。前にもこのブログで,その中の一人として広瀬少佐について言及したが,そのほかにも,児玉源太郎,東郷平八郎,大山巌,小村寿太郎,陸羯南など素晴らしい明治人が目白押しである。これらの人々に加え,黒木為楨,奥保鞏,乃木希典,野津道貫などに恐らく共通するのは,いずれも明治維新前に各藩で藩校などの教育機関,さらにそれより小単位の制度(例えば,薩摩藩における郷中,会津藩における什など)でしっかりとした教育,識見を植え付けられ,これを身につけていたということだろうと思う。

 

 今,民主党政権下で「子供手当て」や「高校無償化」などの金銭等の給付面のみに言及され,実際に施される教育の中身について触れられることが少ない。資源の少ない日本は,人こそが資源であり,教育(科学技術研究も含む。)こそ国家存立の基盤という認識が必要なのではないだろうか。

 

 この「坂の上の雲」を読み,それぞれの場面を想像するにつけても,人こそが資源だなと改めて痛感する。この本は何度も何度も読み返したいし,それに値する一冊である。さて,ドラマの方はというと,正岡子規役の俳優香川照之は,役作りのために体重を30キロ代後半まで減量したという。確かに正岡子規は類い希な才能には恵まれつつも,宿痾のために世を去り,この小説の第3巻目までの登場である。ここまでの役作りをして臨むというのも役者として凄い。ドラマにも大いに期待したい。

2009年11月30日

グールドの愛した一冊

 

 グレン・グールドという人は,異色かもしれないが,天才ピアニストであったことは間違いない。バッハのゴルトベルク変奏曲のうち,晩年に録音した方のものや,平均律クラヴィーア曲集などは今でも僕の愛聴盤である。グールドは秋に亡くなったが,早くも没後27年も経つ。そのグールドは,カナダ国籍だったが,夏目漱石の「草枕」をこよなく愛し,繰り返し読んでいたということだ。

 

 正直言うと,文豪夏目漱石の作品は,「坊っちゃん」,「吾輩は猫である」,「こゝろ」くらいしか今まで読んだことがなかった。かのグールドが「草枕」を愛読していたという情報に接して,それで興味を持ったのである。・・・・・・・「草枕」を読んでみた。すぐには読書感想が思い浮かばない。僕がかつて読んだ漱石の作品と比較すると,少し異色の作品ではなかろうか。グールドがこの作品を愛読していた理由を知りたい気になった。彼はこの作品のどんな点に惹かれたのであろうか。とても興味深い。

 

 漢文調の文章が延々と続くくだりにはいささかやっかいな思いをしたが,何となく魅力のある作品ではある。宿屋の庭付近から夜中に聞こえてくる小さな歌い声や,突如として湯気の中に浮かぶ女体,その他の自然描写などは幻想的ともいえる。また,その歌い声や女体の主は,出戻りの那美という女性であるが,彼女はこの小説においては極めて大きな存在である。また,随所に現れる人生や事象に対する内省的,洞察的な表現。繰り返すが,あのようなバッハを表現するグールドがこの「草枕」という作品のどんな点に惹かれたのかが知りたい。

2009年11月24日

野分け

 

 台風18号,今回の台風は非常に手強かった。僕が天気図上ではじめてこの台風を目にしたのは,今から数日前で,まだ日本からはるか南海上にあった。ところが,その時の中心気圧が915ヘクトパスカルだったから,内心「こりゃー凄いな。」と思った。この台風が日本に上陸することがあるとすると,その時点でも相当の勢力を維持しているだろうと直感したのである。

 

 僕は名古屋市内に住んでいるが,ちょうど今朝の明け方が暴風雨のピークだった。相当の迫力で,室内にいても恐怖を感じるくらいだった。それでも何とか通勤する時間帯には風も治まり,歩いて職場まで行くことが出来た。

 

 その道すがら,台風が過ぎ去った後の街の様子をつぶさに観察してきた。路上には,木の枝,まだ青い葉っぱ,枯れ葉,花びら,木の実などが散乱していた。行く先々で,集合住宅や共同店舗の前では,複数の人達が協力し合いながら箒で掃除をしていたし,一軒家の前でも初老のご婦人がやはり丁寧に掃き出しをし,鉢植えの手入れなどをしていた。本当に日本人というのはきれい好きであり,街の美観をいつも考え,花や樹木などの自然をいたわり愛でる民族なのだなと思った。

 

 台風などによる暴風を古典的な表現で「野分(のわき)」,「野分け(のわけ)」というが,徒然草の第十九段(折節の移りかはるこそ)には,次のような表現がある。
 「また野分(のわき)の朝(あした)こそをかしけれ。」

 

 その大意は,「また,台風が過ぎた翌朝の景色はとても興味深いものだ。」というものだ。今朝の通勤途上でこのことを実感した。ただ,僕がこのブログを書いている時点ではまだ件の台風が日本列島を縦断中である。その進路上にある地方の方々の無事を心からお祈りしている。

2009年10月08日

ふるさとの雨

 

 今年の梅雨は長かった。長梅雨というのだろうか。僕の住んでいる地方は,昨日ようやく梅雨明け宣言が出された。降雨量も多かった。降雨といえば,山口県防府市及びその周辺の豪雨災害があった。防府市の老人ホームが土石流災害に襲われ,多数の人が亡くなった。亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りすると同時に,その他被害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げます。

 

 山口県防府市は,漂泊の俳人,種田山頭火の生まれ故郷である。

 

「雨ふるふるさとははだしであるく」

 

 山頭火の有名な句の一つである。この句自体は,山口県小郡市で作られたもののようだが,小郡と故郷の防府とは近い。ふるさとの雨を詠じた句。山頭火はどんな気持ちでこの句作をしたのであろうか。山頭火自身の自句評を引用すると,「雨ふるふるさとはなつかしい。はだしで歩いてゐると、蹠の感触が少年の夢をよびかえす。そこに白髪の感傷家がさまよふてゐるとは。」(村上護著,「山頭火名句鑑賞」91頁,春陽堂)。雨の日の行乞も決して楽ではなかったろうが,山頭火の場合は,もうそんな苦楽の感情を超越していたのかもしれない。

 

 また,山頭火は,故郷について次のようなことも述べている。「故郷忘れ難しといふ。まことにそのとほりである。故郷はとうてい捨てきれないものである。それを愛する人は愛する意味に於いて、それを憎む人は憎む意味に於いて。(中略)しかし、拒まれても嘲られても、それを捨て得ないところに、人間性のいたましい発露がある。錦衣還郷が人情ならば、襤褸をさげて故国の山河をさまよふのもまた人情である。」(村上護著,「山頭火名句鑑賞」85頁,春陽堂)。これまた山頭火にあっては,虚栄,卑下などといった感情も超越していたのだ。

 

 「うまれた家はあとかたもないほうたる」


 

2009年08月04日

ノスタルジー

 

 新聞の書評欄を見ていたら,「宮本常一が撮った昭和の情景 上下」(宮本常一著,毎日新聞社)というのがあった。今は亡き民俗学者宮本常一が,行く先々で昭和の日本の有様を26年間にわたって写真撮影したものの中から選りすぐったものだという。書評を書いた思想史家田中純氏は,「昭和の農村・漁村・山村の景観や人々を記録した魅力的な写真の数々が、入手しやすい形で書籍化されたことを心から喜びたい。」,「・・・・・この切ない懐かしさはどこからやってくるのだろう。」などと述べている。宮本常一自身も,「忘れてはいけないというものをとっただけである。」と述懐している。

 

 僕は昭和生まれで,いつも懐かしい昭和に逢いたいと思っている。ノスタルジーを感じるのである。ノスタルジーという言葉にもいろいろな意味があるが,僕のいうノスタルジーとは,過ぎ去った時代を懐かしむ気持ちのことである。是非ともこの宮本常一が撮影した写真集を入手し,軽くお酒などを飲みながら楽しみたいと思った。

 

 また,懐かしい昭和で思い出したが,以前僕は,牛山隆信さんが監修した「秘境駅へ行こう」という面白い番組を見ていたことがある。時間とお金さえあったら,日本全国のとっておきの秘境駅をいつか巡ってみたいと憧れていた。この牛山隆信さんという人は,まだそんなに年でもないのに,顔自体が全く飾り気がなく素朴な「秘境」のような顔をしていて,非常に好感がもてる。彼の企画は,日本全国の秘境駅を,①秘境度,②雰囲気,③列車到達難易度,④車到達難易度の4項目において5段階評価をし,ランキングするというものである。

 

 この番組自体も相当に面白かったが,牛山さんの「秘境駅へ行こう!」(小学館文庫)という本もいずれ読んで,どこかの興味深い秘境駅に旅し,懐かしい昭和に逢いに行きたいと思っている。

2009年07月07日

名著「マタイ受難曲」

 

 「また『マタイ受難曲』かよー」なんて言わないでね。今日は,マタイ受難曲の曲そのものよりも「マタイ受難曲」という本のお話なのです(あれっ?今日はいつもと文体が違う)。前にも一度このブログで触れたことがあると思いますが,その本というのは,「マタイ受難曲」(礒山雅著,東京書籍)のことです。

 

 僕がこの本を東京の書店で偶然見つけたのは,平成7年3月ころでした(あの忌まわしい地下鉄サリン事件が起こった直後のことです。)。司法修習生の時代も終わりを告げ,4月からはさあいよいよ弁護士1年生という時期でした。この本を購入してしばらくの間は,仕事が忙しくて読む余裕がなかったのですが,恐らくちょうどその年の今ぐらいの季節からこの本を読み始めました(今日はこの文体でこのまま突っ走ります)。

 

 著者(礒山雅氏)のマタイ受難曲への思い入れは半端なものではありません。その求道心とこの曲に対する素晴らしい研究の成果がこの本に凝縮されております。他の本と比較した訳ではありませんが,マタイ受難曲の研究成果に関する本としてこれ以上のものが現時点で存在するでしょうか?・・・・・。例によって,この本の「はじめに」の部分から少し引用してみましょうね。

 

 「・・・・・私は、構想の雄大さと親しみやすさ、人間的な問題意識の鋭さにおいて、《マタイ受難曲》こそバッハの最高傑作であると思っている。この作品には、罪を、死を、犠牲を、救済をめぐる人間のドラマがあり、単に音楽であることをはるかに超えて、存在そのものの深みに迫ってゆく力がある。それはわれわれをいったん深淵へと投げ込み、ゆさぶり、ゆるがしたあげく、すがすがしい新生の喜びへと、解き放ってくれる。研究者としての私にとって、《マタイ》はいつも、大きな目標として、頭の上にあった。その《マタイ受難曲》の研究に、私は、自分の四十代を費やした。その集成が、本書である。・・・・・・・・」(17~18頁)

 

 どうです,皆さん。もう読むしかありませんよねぇ・・・。それにしても,ある研究者の四十代,約10年間を費やす対象となった「マタイ受難曲」という存在。これは何度聴いても涙がでてくる至高の存在なのであります。僕もこれまで,ある本を何度も読み返した経験はありますが,今回この「マタイ受難曲」という本を読み返すのは5回目で,5回目を迎えたのはこの本が初めてです。というのも,今年の11月に合唱団の一員としてこの曲の上演があり,そのために練習を重ねているのですが,改めてこの曲に対する理解を深めるにはこの本を読み返すのが一番だと思ったからです。

2009年06月24日

網代笠と日傘

 

 一昨日は梅雨空の雨が降り,夕方には雷が暴れた。行乞の旅に出た網代傘姿の山頭火は,雨とはどのように付き合ったのだろうか。その日の食い扶持を確保しなければならないのだから,雨だからといって行乞を止め,畳の上で大の字になっている余裕はなかったと思う。

 

 「あの雲がおとした雨にぬれてゐる」
 「雨なれば雨をあゆむ」
 「笠をぬぎしみじみとぬれ」

 

 山頭火は,雨でも自然と一体である。当然のことながら自然を敵対する勢力とは全く思っていない。

 

 では,暑い晴天の日はどうか。

 

 「炎天をいただいて乞い歩く」
 「炎天の下を何処へゆく」

 

 山頭火はたとえ炎天でもやはり自然と一緒だ。一体である。

 

 それに引き替え僕といったら。真っ黒に日焼けすると法廷で「遊び人」と思われてはいけない,紫外線は大切な髪に悪いなどといった理由で,男性用日傘を差して歩いている。山頭火とは違い,あたかも自然を敵対視し(そのつもりはないのだが),自然から自己を防衛している(・・・・・いわゆるUVカットというやつ)。でも日傘は結構重宝している(笑)。

 

 でもねぇ,山頭火の気持ちが解るなどとは,とても恥ずかしくて言えない。山頭火の生き方に共感を覚えるなどと言っても説得力がない。それでも何となく山頭火の生き様に憧れる。五七五でない山頭火の自由律非定型句に心を惹かれるのである。

2009年06月18日

父が読んでいた本

 

 何とはなしに,久しぶりに三島由紀夫の本を読みたい気になった。大学時代以来,全く読んでいなかったからだ。これまで三島由紀夫の作品は相当に読んだが,最晩年のいわゆる「豊饒の海」四部作は全く読む機会がなかった。それで手始めに,第三巻目の「暁の寺」を手に取って読み始めた。で,でも・・・,直ぐに挫折してしまった(笑)。菱川という登場人物の「芸術というのは巨大な夕焼けです。」で始まる長々とした台詞を読んでいて,嫌気がさしてしまったのだ。他の三島作品は,大学時代には魅せられたように読み進んでいったのに,この「暁の寺」の最初の部分はやたら読み辛かった。

 

 ある平日のランチの後,いつものように行きつけの書店をブラブラしていたら,本当に懐かしい本の表紙が目に付いた。僕が小学生のころ,今は亡き父が読んでいた本の表紙が目に入ったのである。その表紙のほぼ真ん中に温厚そうな紳士の写真が配置されている比較的シンプルな装丁の本。「道は開ける」(D・カーネギー,香山晶訳,創元社)という本だ。亡き父は休日には本を読んだりしていた。今となっては父がどんな本を読んでいたのかは全く覚えていないが,この本の存在だけは何故だか覚えていた。当時はこの本がいつも書棚にあったので,図書館から借りてきたものではなく,購入したものだと思う。

 

 書店でこの本を見つけた時,すごく懐かしい思いがした。小学生だった僕がこの本の内容を知る由もなかったし,その後も,この本の著者と,いわゆる鉄鋼王のカーネギーとを混同し,どうせ企業家の成功談なのだろうと誤解したりしていたため,読む機会もなかった。ちょうど亡き父がこの本を読んでいた時期は,父が独立する前の会社員時代だったことは間違いなく,どんな心境で,どんな関心をもってこの本を読んでいたのだろう。

 

 この本はまだ半分ほどしか読み進んでいないが,この本が超ロングセラーで現在でも新装版が書店に並べられている事実は十分にうなずける。内容的に素晴らしいのである。含蓄がある表現が多く,困難を実際に体験した者でなければ理解できないような処世訓,哲学が散りばめられている。各章の表題は「悩みに関する基本事項」,「悩みを分析する基礎技術」,「悩みの習慣を早期に断とう」,「平和と幸福をもたらす精神状態を養う方法」,「悩みを完全に克服する方法」,「批判を気にしない方法」,「疲労と悩みを予防し心身を充実させる方法」,「私はいかにして悩みを克服したか【実話三十一編】」というものだ。参考になり,説得力があり,心に残る表現をいちいち引用していたらきりがないくらいである。でも,例えば今日読み進んだ部分の中で,気に入った表現は次の2つである(116頁,142頁)。


「気にする必要もなく、忘れてもよい小事で心を乱してはならない。『小事にこだわるには人生はあまりにも短い。』」
「神よ、われに与えたまえ、変えられないことを受けいれる心の平静と、変えられることを変えていく勇気と、それらを区別する叡知とを。」(ラインホルト・ニーバー博士の言葉)

 それに,この本を読んでいて,海外の文献における訳者の重要性を痛感した。訳が素晴らしいのである。当然のことながら,良い訳というのは,原文となった言語に精通するだけでなく,何よりも美しく正確な日本語を使いこなせ,深い教養がそのバックボーンになければならない。

2009年06月04日

好奇心の生じた本

 

 本を買う時には2通りある。ぶらーっと何気なく書店に行き,何のお目当ての本などなしに店内を回り,これはと思う本を手にとってパラパラめくり,よし読んでみようと思って買う方法。もう1つは,新聞や雑誌の広告や書評を目にして,「これは一度読んでみようかな。」と思って買い求める方法である。どちらが多いかというと,はやり半々くらいである。書店で衝動買いしてしまって,読んでみたらそれほどでもなく,やはり書評などで他者から評価されているものがいいなと思うこともあるし,かといって,書評等で評価されていても実際に読んでみると自分にとってはガッカリしてしまうこともあるからである。

 

 最近,「ブルターニュ幻想民話集」(アナトール・ル・ブラーズ編著,見目誠訳,国書刊行会)という本を読んだ。これは新聞広告で興味を持ったからだった。たまにはこういう本もいいなと思ったのだ。広告やタイトルからして,柳田國男の「遠野物語」のフランス版のようなものかなと直感し,何やら好奇心が生じた(訳者のあとがきでは,やはり「遠野物語」のことに言及されていた。)。

 

 この本は割と興味深く読むことができちゃった。これはフランスのブルターニュ地方の漁民,農民の間に伝わる話を19世紀末に広く収集して著作されたものを,最近邦訳して刊行されたものである。「遠野物語」にはカッパや座敷童(ざしきわらし)などが出てきて,怖いような,でもそれでいてどこかほのぼのしたような雰囲気があるが,「ブルターニュ幻想民話集」に出てくる話は,生死に直結しているというか,リアルというか,ほのぼのとしたものを感じはしないものの,人生の深みを感じさせる。

 

 ある時,ふと最愛の人の姿が目の前に現れ,不思議だと思っていたら,同時刻ころにその最愛の人の乗った船が沈没して死亡したという話がある。同様に,ある女性が日曜日のミサに出かけるための身支度をしている際に,不思議なことが度々起こり,ちょうどその頃に兵士としてアルジェリアで戦っていた許婚者が戦死していたという話もある。妻が池でシーツの洗濯をしている時,見知らぬ女から「今洗っているそのシーツはいずれ夫を包む屍衣になる。」と不吉なことを言われ,現実にその直後に夫が自宅で死んでいるのを発見するという話。これらはいずれも,いわゆる「虫の知らせ」というやつだ。その他にも,ある者をからかってビックリさせるために,死んだふりをしていたら,本当に死んでいたというような話。アンクー(ブルターニュ伝説に多く登場する,死が人間化されたもので死神のこと。)にまつわる怖い話。アナオン(苦しんでいる死者の魂のこと。)にまつわる話で,ミサをあげることにより救われる話などが収録されている。また,幽霊の話もあるが,ふと目にする死者のその姿は概して生前の姿のままであり,日本の怪談に出てくるような異形ではない。・・・で,でも怖いことは怖い(笑)。

 

 この本のあとがきに書いてあったし,本当にそのとおりだと思ったのだが,ある地方の民話を読むときは,やはりその地方の歴史,宗教,習俗などに対するある程度の知識が必要とされるようだ。

2009年05月20日

バッハの見た月

 

 もう,一週間も前のことになるだろうか。仕事を終えて自宅に歩いて帰る途上で目にした月の本当に見事だったこと。まん丸でとても大きかった。その時に僕の頭に浮かんだのは,「あのような月をバッハも見たのだろうか。」という思いである。

 

 その時にそういう思いが浮かんだのは,何故だか分からない。古今東西というが,昔でも今でも,また洋の東西を問わず,月の姿は同じであって,僕がその音楽を心から愛するバッハを思慕してそのように思ったのか,それともある本の一節が頭のどこかに残っていたからなのかは分からない・・・・。その本というのは,「バッハへの旅」(加藤浩子著,東京書籍)。この本は,著者が,バッハ生誕の地アイゼナッハから終焉の地ライプツィッヒまで,その生涯と由縁の街を巡る旅の様子を写真入りで紹介した本である。この本のうち,ちょうどこの著者がバッハの活躍したケーテンを訪れた際の記述の中に,「あの月を、バッハも見たのだろうか。」(174頁)という表現があったのだ。

 

 この著者は,本当に心からバッハの音楽を愛しているのだと思う。この本の「あとがき」の一部を引用してみると・・・・・・・


 「バッハに導かれて、ここまできた。いつ出会ったか、記憶にないままに。けれど気づいてみたら、いつもバッハがいた。好きな作曲家は大勢いるのに、好きな音楽もたくさんあるのに、ふと佇んだとき、曲がり角にいるとき、いつもバッハがそこにいた。バッハはさりげなかった。そして強かった。・・・・・・・・だがその足跡をたどればたどるほど、私はバッハの音楽へのかぎりない愛を、音楽を極めたい、その高みに上り詰めたいというたぎるような情熱を、感じずにはいられなかった。それがどれほど破格であることか。それはバッハに魅せられたひとりひとりが知っている。バッハに慰められたひとりひとりが知っている。行く手の見えなかった私がここまで歩いてこられたのも、バッハの強さの、破格さの、証明であるように思えるのだ。・・・・・・・あなたが逝って二五○年。その間、いったいどれほどの人たちが、あなたの音楽に励まされ、慰められ、癒され、勇気づけられてきたことでしょう。はるかな時空の彼方から、私たちに寄り添いつづけてくれているあなたの音楽に出会えた幸せを、私たちは改めて噛み締めています。」(342~345頁)

 

 引用が長くなった。でも繰り返すが,この本の著者は本当にバッハの音楽を心から愛しているのだなあと思ったし,僕も全く同じ気持ちなのである。

 

 ただちょっと待てよ。僕が帰途に見た月の絵柄は,当然,「うさぎの餅つき」であった。でも,バッハが見た月の絵柄はこれと同じではないはずだ。僕が小さい時,確か世界各国で見られる月の絵柄自体は違うというようなことを教わった。よくよく調べてみると,ドイツでは,「薪をかつぐ男」だったり,「悪行の報いとして月に幽閉された男の姿」として見えるようである。ちょっと暗いというか,ネガティブというか,少なくとも日本で例えられるような(うさぎの餅つき),ほのぼのとした雰囲気はないようだ。ということは,バッハが見た月と僕が見た月とで共通していることは,丸いこと,大きいこと,明るいことの三つということですか(笑)。

2009年04月21日

ダンテの発想

 

 少し恥ずかしいのだけれど,最近食べることが楽しみで仕方ない。夜寝る前には翌朝の味噌汁の具は何がいいとか,アジの開きが欲しい,いや納豆も欠かせないとか,そんなことが頭に浮かぶ。散歩がてら歩いて職場に向かう途上も,昼はどうしよう,今日はすごく辛いカレーがいいかな,でもあっさり系の中華そばもいいな,いや待てよ,カレーといってもあの蕎麦屋のコロッケカレーそばも捨てがたいな,などと考えている。困ったものだ。午後3時を過ぎると,今度は仕事をしながら夕食のことを考えたりする。炊き込みご飯がいいとか,水炊きがいいとか・・・。年甲斐もなく,恥ずかしい。実はこのブログを書いている今でも,コーヒーだけじゃなくポテトチップスをかじっている。でも,食欲があるということは健康ということなのか。それにあの谷崎潤一郎も年老いてなお健啖家だったというし。

 

 それにしても,食い意地が張っているのも大概にしないといけない。ダンテの「神曲」の地獄篇第六歌によれば(平川祐弘訳,河出書房新社),地獄は全部で九つの圏谷(たに)があってその第三番目の圏谷(たに)が生前貪食(大食い)の罪を犯した者が墜ちるところだそうだ。そこでは,絶えず冷たい雨に打たれつつ,頭と喉と口が三つずつあるケルペロスという獰猛奇怪な獣に食われてしまう恐怖に苛まれながら過ごさなければならない。ただ僕の場合は,確かに食い意地が張ってなくもないが,大食いは嫌悪している。自分が食べ過ぎたり,大食いをしている人を見ると気持悪くなるのだ。大食いだけはしない。食べるのが楽しみというだけである。だから僕は大食いの罪で地獄の中の第三番目の圏谷(たに)へ墜ちることはないだろう。いや墜ちたくない。

 

 ダンテの発想,特に地獄篇での発想は非常に面白いなと思う。その次の第四の圏谷(たに)は,生前欲張りだった者と浪費家だった者が墜ちるところである。その受ける罰が面白く,僕が下手に要約するより,引用した方がその発想の面白さが伝わるだろう(ダンテ「神曲」,平川祐弘訳,河出書房新社26頁)。

 

「ウェルギリウスに叱咤されて、プルートンが倒れると、二人は第四の圏谷へ降りる。そこでは欲張りの群と浪費家の群とが、円周状の道の上を重たい荷物を転がしながら、渦巻のように互いに逆方向に向かって走り、円周上の一点まで来ると、出会い頭に罵り、殴りあい、挙句に双方ともまたもと来た道を引き返し、また向こうの一点でぶつかり殴り合う。・・・・・・・」

 

 生前,強欲だった者と浪費の限りを尽くした者とが以上のようなことをずっと繰り返すというのである(笑)。

2009年04月07日

クラシックがくれる精神的な力

 

 本日は,結局はクラシックの話なのだが,その前に尊敬する同業者に薦められた本の話を・・・。もう3年も前のことになるであろうか。同業者としても尊敬し,人間的にも面白いある弁護士から,「この本を読んでどれだけ癒されたことか」と言われ,「ダンテ『神曲』講義(改訂普及版)」(今道友信著,みすず書房)という本を薦められた。お薦めの言葉どおり,やはり良い本だった。特にそのように思えたのは,まずはダンテの神曲を実際に読んでからこの本に入ったので,この古典に対する理解をさらに深められ,感動をもって読むことができたからであろう。

 

 この本の最初の部分ではクラシック(古典)の意味について言及されていた。何と,クラシックという言葉には深い意味が込められていたのだ。引用すると,「クラシスとはもともと『艦隊』という意味で、クラシクスとは国家に艦隊を寄付できるような、そういう意味での愛国者でもあるし、財産も持っている人のことをさした言葉で、そこから転じて、人間の心の危機において本当に精神の力を与えてくれるような書物のことをクラシクスと言うようになったということである。もちろん書物ばかりではなく、絵画でも音楽でも演劇でも精神に偉大な力を与える芸術を、一般にクラシクスと呼ぶようになったのである。」とある(5~6頁)。

 

 古典的な書物から確かに勇気を与えられたり,インスピレーションを感じたりすることはある。また,好きなクラシック音楽から(特にバッハ様),癒しを与えられたり,優しい気持ちを取り戻させたり,勇気を与えられることもある。皆さんもどうですか,これからクラシックの世界へ足を踏み入れてみては。

 

 僕はというと,そういえば,確かクラシックという名前が付いたビールがあったんじゃないか,少なくともクラシックラガーというのがあったなというのを今思い出した。今晩は,そういう名前のビールを飲んでみよう。飲み過ぎちゃいけないけど,そのビールを飲んで精神に偉大な力を与えてもらおう。ゴク,ゴク,ゴク,ぷふぁーっ(笑)。

2009年03月13日

泣ける本

 

 疲れて居間のソファに横たわる。肘掛けの部分の高さがちょうど枕代わりになる。ここに頭を置いて,しばらくボサーっとしていた。何気なく本棚の方に目をやると,「10歳の放浪記」(上條さなえ著,講談社)という本の背表紙が目に入った。そういえば,これは良い本だった。新聞だったか,雑誌だったかの書評を読んで早速買い求め,早速読んだ本だ。「平成18年11月30日第1刷発行」とあるから,今から約2年前,時間があまりない中,確か1日か2日で読み終えたと思う。読みながら,不覚にも何度も涙が出てきた。泣ける本である。

 

 著者自身の実際の体験がつづられたもので,10歳ころの約1年,父とともにホームレス生活を余儀なくされた当時の話である。著者が母親から,とりあえず1日だけ千葉県の九十九里村にある母親の兄の家でお泊まりしなさい,「次の日には迎えに行くから。」と言われて,そこへ行く。でも翌日,母は迎えには来なかった。近くのバス停には午前9時,午後3時,午後5時の1日3回のバス到着があり,著者がはやる気持ちを抑えきれず3回ともバス停に行くが,バスから降りて来る乗客の中にやはり母の姿はない。来る日も来る日も・・・・・。著者は雨の日もバス停に行って待っているのだが,それでも母の姿はない。慣れ親しんだ小学校へも行けずに。すごく切ない展開だ。

 

 その後約1か月ほど経って再び母と暮らす。著者は,母から,「お父さんに会って,決して来てくれるなって言うのよ。これで精一杯ですって言うのよ。」と言われて薄い茶封筒を渡される。母にお金を無心する父に少しばかりのお金を渡す役を命じられるのだ。父と会った著者は,みすぼらしく変わり果てた父の姿に恥ずかしさを覚え,幼いながらも,一刻も早く父とその場は別れたいと思う自分を冷たい人間だと自らを責める。クリスマスだからと10円玉を握らせてくれた父が見送る中,都電に乗り込んだ著者は,乗客に涙を見られまいと電車の進行方向を向いて,それでも姿が小さくなっていく父を振り返りながらまた涙を流す。

 

 その後は,親の都合(父が事業に失敗して借金取りに追いまくられる)で,とうとう小学校へも行かず,いよいよ父とともに約1年間にわたって簡易宿泊所での生活が始まる。朝に簡易宿泊所を出てからは,昼間工事現場で働く父と合流するまでと,父と昼食を一緒にとってから夜に簡易宿泊所に行くまでの時間帯は,著者は僅かなお金でずーっと外で時間をつぶさなくてはならない。寒くても・・・。父が心配するからと,著者は本当は泣きたい気持ちを必死に抑えて,父の前では気丈に振る舞う。幸い著者は,父とのホームレス生活を約1年で終え,親とは離れつつも,施設に入って再び小学校に通えることになる。そして,そこにいる山下先生の真の優しさ。

 

 この本は,ちょっとやそっとのことでめげてはいけないという意味で,大きな勇気を与えてくれる。何気なく本棚に目をやり,その背表紙を見つけたこの本のページを久しぶりにめくってみた。次のくだりが目に入った時,また泣けてきた。


  「わたしが自分自身の出来事について書く決心をするまでに、作家となって二十年の歳月を要しました。それはわたしの心の中に、書いたら父母がかわいそうという気持ちとともに、父母に対する恨みがほんの少しでもあったら書けないという気持ちがあったからです。今は、仏となった父と母に、ただ感謝とお礼の気持ちを伝えたいと思いました。この世に生をあたえてくれたことへの感謝とお礼の  気持ちです。今、心から父と母へ、『この世に生んでくれて、ありがとう』という言葉を贈ります。」

2009年03月11日

温泉場の読書

 

 夜にお風呂に入るときは入浴剤を入れている。クナイプの岩塩入浴剤を楽しんだり,日本の温泉入浴剤を楽しんだりしている。昨夜は箱に10袋くらい入った温泉入浴剤をバラバラにして,目をつぶって「今日はコレ!」と選んでバスタブに入れた。昨夜目をつぶって選んだのは「那須塩原温泉」だった。2年前に旅行で行った温泉だ。歴史が古く,文人墨客も愛した名泉である。

 

 亡き大平正芳元首相は,休日や旅行の際には読みたい本を何冊も持って,本当に嬉しそうに旅行先などで読書を楽しんだそうだが,僕も昔から読みたい本を温泉場でゆっくりと味わうのを至上の喜びとしてきた。那須塩原温泉で思い出したが,この時に読んだ本の素晴らしかったこと!

 

 その本のタイトルは「逝きし世の面影」(渡辺京二著,平凡社ライブラリー)である。この本の価値は,僕の拙い言葉,表現力では到底伝えきれない。感動したし,繰り返し何度も読み返したい。この本は,開国前後に日本に訪れた外交使節,通訳,学者,旅行者らによって表現された旅行記,日本人評,日本文明評などを紹介し,著者自ら「失われた文明」を深く考察しているものである。その当時確かに存在した文明を初めて目にし体験した異邦人による評価の方が,より鮮明かつ客観的にその特徴を浮き彫りにできるのではないだろうか。礼儀正しさ,優しさ,質素,清潔,明るさ,子供たちの可愛らしさ。「いいことづくめで,どうなのよ。」と引いてしまう方もいるかと思うが,例えば,「第十章 子どもの楽園」の中から,若干引用してみよう(411頁以下)。

 

「チェンバレンの意見では、『日本人の生活の絵のような美しさを大いに増している』のは『子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊戯』だった。日本の『赤ん坊は普通とても善良なので、日本を天国にするために、大人を助けているほどである。』モラエスによると、日本の子どもは『世界で一等可愛いい子供』だった。かつてこの国の子どもが、このようなかわいさで輝いていたというのは、なにか今日の私たちの胸を熱くさせる事実だ。モースは東京郊外でも、鹿児島や京都でも、学校帰りの子どもからしばしばお辞儀され、道を譲られたと言っている。モースの家の料理番の女の子とその遊び仲間に、彼が土瓶と茶碗をあてがうと、彼らはお茶をつぎ合って、まるで貴婦人のようなお辞儀を交換した。『彼らはせいぜい九つか十で、衣服は貧しく、屋敷の召使いの子供なのである。』彼はこの女の子らを二人連れて、本郷通りの夜市を散歩したことがあった。十銭ずつ与えてどんな風に使うか見ていると、その子らは『地面に坐って悲しげに三味線を弾いている貧しい女、すなわち乞食』の前におかれた笊に、モースが何も言わぬのに、それぞれ一銭ずつ落とし入れたのである。この礼節と慈悲心あるかわいい子どもたちは、いったいどこへ消えたのであろう。しかしそれは、この子たちを心から可愛がり、この子たちをそのような子に育てた親たちがどこへ消えたのかと問うこととおなじだ。・・・・・・・」

 

 これは当時の子供たちの様子に触れた箇所であるが,その他の章(テーマ)においても,このような描写,表現が至る所に散りばめられている珠玉のような名作だ。日本人には,その根底部分には,その心性として,惻隠の情,敵に塩を送る思いやり,卑怯を憎む心,礼節,潔さなどがあって,それらはまだ残っていると信じたい。著者は,本書を著した意図について「私の意図はただ、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。」(65頁)と述べているが,僕なんかは追体験するにとどまらず,かつてあった文明の良い面は何とか復活して欲しいと切に願う一人なのである。

2009年02月16日

放浪の俳人

 前にこのブログで,種田山頭火が非常に気になる存在だと書いた。山頭火の評伝(伝記)はいくつかあるのだろうが,ミネルヴァ書房から出ている「ミネルヴァ日本評伝選」シリーズの「種田山頭火」(村上護著)が決定版ではなかろうか。研究し尽くされた非常によい本だ。種田山頭火(本名,種田正一)は,満で9歳の時に母親が自殺し,その後年,実弟も自殺している。これらのことが山頭火のその後の人格形成に影響を与えなかったはずはない。それはそれとして,この本によると,どうやら山頭火の俳句は諸外国でも人気が高く,あちこちで翻訳されて,今や芭蕉に次ぐ存在になりつつあるとのことだ。

 

 味わう者に語りかけることが多く,その心にずっしりと残る非定型句。彼は,結局妻子を捨てたに等しく,仏門に入って修行と堂守の生活に落ち着くかと思いきや,漂泊の行乞の旅に出る。鉄鉢を手にした托鉢僧姿で来る日も来る日も歩き,句作を続けた。

 

    「どうしようもないわたしが歩いてゐる」

    「しぐるるや死なないでいる」

    「だまつて今日の草鞋穿く」

    「まつすぐな道でさみしい」

    「雨だれの音も年とった」

    「鉄鉢の中へも霰」

 

 木賃宿というのは今もあるのだろうか。旅人がその日の夕食として炊いてもらうお米を宿に持ち込み,炊くための薪代を支払って泊まる宿である。山頭火は,手にした鉄鉢に入れてもらった「もらい」のお米を宿に預け,それがその日の夕食になり,薪代になり,現金になるのである。今日のように真冬の行乞の旅はさぞ厳しいものであったろう(特にしぐれたりしたら・・・)。僕にはとても真似できないし,真似しようとも思わない。僕にも普通の生活があり,山頭火のように,半ば「諸縁放下」(徒然草)する訳にもいかない。でも,山頭火の句は魅力的で,その心情を思いやると何かしら理解できる部分もあり,イメージの中で山頭火の追体験をしたがっているのだろうと思う。

 

   「荒海へ脚投げだして旅のあとさき」

   「ついてくる犬よおまへも宿なしか」

   「ひとり焼く餅ひとりでにふくれたる」

   「たんぽぽちるやしきりにおもふ母の死のこと」

   「濁れる水の流れつつ澄む」

(山頭火の場合は気が向いたらいつかに続く)

 

2009年01月27日

何度も読みたい「坂の上の雲」

 テレビを見ていたら,NHKがどうやら今年の秋からドラマ「坂の上の雲」を放送するということである。以前からそのような情報には接していたが,いよいよかという感じで非常に待ち遠しい。

 

 一生のうちで何度も何度も読み返したいという本は何冊かあるが,司馬遼太郎の「坂の上の雲」はそのうちの一冊である。文庫本のサイズで8巻ある長編だが,読破するのにさして苦痛などはないどころか,深い取材力に裏付けられた内容に思わず引き込まれてしまう。あぁ,昔はこのように立派で無私の日本人が数多く存在したのだなぁ,と感動を覚える。

 

 この「坂の上の雲」の中で強く印象に残る登場人物を挙げろといわれたら非常に困る。秋山好古,真之の兄弟,児玉源太郎,落命した無数の無名兵士のことに思い至るのはもちろんであるが,全部読破した後でも何かしら心に残る人物の一人として広瀬少佐がある。ロシアバルチック艦隊の旅順港への入港を阻止するための旅順港閉塞作戦というのがあった。広瀬少佐率いる隊の船が撃沈された際,どうしても見当たらない部下の一人を指揮官として最後まで三度にわたって船内(船底まで)捜索し,断腸の思いで諦めてボートに移った直後に敵の砲弾を受けて戦死してしまう。撤退のためのボートは敵の探照灯(サーチライト)で照らされ,今にも砲弾の直撃を受けてしまうような状況で,ボートを漕ぐ部下らは恐怖で引きつっていたであろう。小説によると,そのような中で広瀬少佐は,「みな,おれの顔をみておれ。見ながら漕ぐんだ」と言って部下を懸命に励ましている最中に砲弾の直撃を受けて戦死したという。

 

 極限状況下で,この部下思いの深さや勇気は一体何なのだろう。僕がこの長編を読み終わる最後までこの人物の存在はずっと僕の心をとらえていた。前日のブログで,不安を感じる僕を勇気づけるような,心に響いた言葉を紹介したが,広瀬少佐(その後中佐)のこの勇気も僕の士気を限りなく鼓舞してくれる。

 「坂の上の雲」は近々また読んでみたい。でも,司馬遼太郎がこの小説のタイトルを「坂の上の雲」にした理由は僕には未だに分からずじまいである。もう一度読み直したら分かるだろうか・・・。

 

 

 

2009年01月06日

気になる山頭火の存在

 寒くなった。ようやく冬らしくなった。先日は,少しばかり時雨れていたし・・・。

午前中に歩いて法廷へ行く途中,消極的ではあるが幸運な出来事があった。並木になっている歩道をトボトボ歩いていると,7,8メートルほど先の木の枝に鳩が僕の方に背を向けて留まった。何となくであるが自然に僕の足が止まった。その2,3秒後にその鳩が後ろに向けて白っぽいフンを機関銃のように発射してきたのだ。

 

 よ,よかったーっ。そのまま歩いていたら,件のものが僕の顔面かあるいは黒のオーバーコートの襟付近を直撃することは必定であった。もしそのような事態にでもなったら,件のそれをハンカチで拭くだけで法廷で訴訟活動を行わなければならなかったし,何よりもその日は一日中気分的に凹んでいたはずだった。自分の危険予知能力も満更ではないなと思った。そのたぐいまれなる危険予知能力が,待ちかまえていた凄惨な結果,過酷な運命を首尾よく回避させることになったからである。「消極的な幸運」とでも言える出来事であった。

 

 時雨れるといえば,僕は,種田山頭火の句の中でも次の句が最も好きな一つである。 

 

     自嘲 「うしろすがたのしぐれてゆくか」

 この句の解釈にもいろいろのものがあるが,理屈抜きでシンミリくる。僕にとって山頭火が気になる存在になったのは,おそらく高校生の時からだったと思う。現代国語という教科の中で,山頭火が尾崎放哉らと並んで,五七五の定型句ではなく,自由で非定型の句を詠み,漂泊の俳人だったということを知ったのだ。山頭火だけでなく,尾崎放哉の次の句に直面した時は,ショックであったし,強い感動を覚えたものである。

         「咳をしても一人」

 このようなことから,特に山頭火はどういう訳か気になる存在になった。彼の句が非常に好きになってしまったのである。いくつか挙げてみよう。

         「何とかしたい草の葉のそよげども」

         「寝るよりほかない月を観てゐる」

         「分け入つても分け入つても青い山」

         「うどん供えて、母よ、わたくしもいただきまする」

         「一杯やりたい夕焼空」

         「すべってころんで山がひっそり」

     (いつかに続く)

2008年12月24日